vol.040キラキラ輝く人生を。
方向性を打ち出せない国、戦争の呪縛
2011年。
生まれてから一番、日の丸を見た年だった。日本という国を一番意識した年だった。日本という国に住む、自分という存在を改めて考え直させられた一年だった。
・・・
今年、43歳になる。
大学1年生、19歳の時に昭和から平成に変わった。
大雑把に言うと人生の半分を昭和、更に半分を平成として育った。
人生の半分はイケイケ、ノリノリで怖いものなしの時代。後半戦は下り坂、硬直化でシケシケの何ともショボい時代という感じだ。後半戦は現在進行形なので「あぁあ、ショボい中で生きてんなぁ、なう。」といったところか・・・ 僕の人生の半分を過ごした戦後の昭和。長い戦争で質素倹約が強いられ、思想まで管理された時を終え、溜まりに溜まったエネルギーを一気に放出した時代と言えるだろう。
一方、昭和初期はと言えば、帝国主義と資本主義、共産主義が渾然一体と覇権争いをしていた時代だ。欧米とソ連に挟まれた小国日本の動揺は想像に難くない。江戸時代から昭和まで、たったの60数年・・・ 鎖国でチョンマゲだった日本が、国としての骨格と国力の基盤となる産業を如何に速い速度で育てたのか・・・ 普通に考えても「日本人ってすごいなあ」と思う。親父が昭和17年生まれだから、恐らく曾祖父さんくらいの世代がそんな「激動の日本」を生き、作っていったのだろう。文字通り、歴史を作ったたくましい世代だ。曾祖父さんの事は全く知らないが、なんとなく誇らしく思う。と、こんな風に個人を誇らしく思うのは簡単だ。でも、日本という国を誇らしく思おうとすると、なぜか心に得体の知れぬ制御機能が働いてしまう。なんなんじゃこりゃ。
半分を昭和で生きてきた僕は、未だにイデオロギーの呪縛が心の底にある・・・ それが制御機能の正体だ。「日本を誇りに思う」や「日本が大好きだ!」なんて事を公言したら「右翼と思われちゃうんじゃないか」という変な恐怖心が心を制御する。そう、僕は「愛国心に対する制御機能が自動的に飛び出てくる仕組みが装着されてしまった日本人」なのだ。
普通に考えて、何か変じゃないか。
僕自身、現実的に率直に、どちらかというとわがままに生きている方だと思う・・・ B型だから尚更だ。にも関わらず、幼少期の環境や教育の影響はなんとも恐ろしい。小学校の担任がバリバリの日教組の人で「君が代」は6年間歌った事はないし「はだしのゲン」を始めとする戦争に関する本をたくさん読まされて、戦争が悪いというよりも「日本がいかに悪い事をしてきたか」という事を叩きこまれてしまった。高校では自衛隊批判や天皇批判のオンパレード、社会科の授業でかなり思想的・政治的な指導を受けてしまった。今考えると本当に酷い話だ。僕にそんな制御機能を埋め込んだ先生(っていうか、あの野郎)の顔、激しい嫌悪感と共に今でもはっきりと思い出す。普通、親ですら思想的な指導や政治的な導きはしないだろうに。
反面、アメリカとの仕事が増えるようになって、アメリカ国歌がいかに普通に歌われているのか、というのを目の当たりにし、純粋に羨ましく思った。全てのスポーツ、プロはもとより高校や小・中学校に至るまで、試合の前には必ず国家斉唱がある。ひとつにまとまる力、そしてそれが愛国心はもとより、公共心や利他精神を醸成しているとも思えた。つまりは自分がこうしてスポーツを楽しめるのも、過去から現在まで色々な人々の支えがあるからだ、と。先生一人の思想の為に、全生徒が「君が代」を歌えない、という過去の環境を苦々しく思い出した。そして思想の自由を奪った先生を恨めしく思った。そんな教育をしているから「してくれるのが当たり前」かのごとく利己的な考えが現代に蔓延っていると思うのは、穿った見方であろうか。教育は無料ではない。税金によって賄われている。正しい愛国心の醸成は、公共心や利他精神育成の最短距離だろう。
さすがに高校生くらいになると、「なんでコイツ、こんなに意地になって日本の批判をしてんだろう」と疑問も感じるようになって、日教組系の教師に対する不信感が芽生えたりもした。ま、いずれにしても経済が上向きの昭和という時代。批判ばかりしてても仕事には困らず、定期昇給もあったりして、インテリぶって社会批判しながら呑気に暮らせた時代だったのだろう。
そして平成に年号が変わり、国から給料もらって国を批判するような先生が呑気に暮らしていた時代とは状況が一変してしまった。基礎財政収支の赤字幅は青天井、使うお金の半分しか収入がない。将来を支える子供の出生率が1.3人そこそこ。学力は低下し、治安は悪化。将来年金がもらえる保証などどこにもない。僕らのように、昭和の煌びやかな時代を知っている世代はまだいい。これからの世代が本当に心配でならない。純粋無垢な子供たち。この子たちが何も知らずにニコニコ暮らしている間、一秒ごとに国の借金は約73万円増えている。一日で約630億円の借金が増えているのだ。そう、もはやイデオロギーの呪縛に苦しんでいる場合じゃない。この国を良くするため、国全体の能率を上げるため、国に対する意識、国家運営に対する意欲を高める事が不可欠ではないだろうか。
震災直後は「今の自分に出来ることを!」などと、もっともらしいコメントがテレビなどのマスコミ、ツイッターやフェイスブックなどを賑わした。そんなこと、「言う」ことじゃなくて「やる」ことだろうが・・・
軽薄で大衆迎合丸出しの一般風潮に対する苛立ちがどんどん増幅した。一年たった現在、「ガレキの処理」問題での日本人の醜態は見るに耐えない。「今の自分に出来ることはガレキを自分の場所に持ってこないことだ!!」と平気で言っている。自分も公共の一部であるはずなのに、公共の困難をヒステリックに拒絶する。自分と自分の家族の事だけを考える厚顔な利己思考には吐気すらもよおす。とっとと海外にでも移住して欲しいものだ。理想を求めて北朝鮮にでも行ってくれ。とにかく心の底にあった「愛国心」がムキムキ顕在化してきた一年だった。
イデオロギーの呪縛
それにしてもなんだ、この得体の知れない恐怖心は。「愛国心」って書いたらなんか怖いぞ。一体何が怖いんだろう・・・ 誰かに襲われちゃうのだろうか。いや、そんなハズはないだろう。むしろ、僕のような「社会を支える世代≒国を支える世代」が自国を愛する事が憚られる、なんて事があっていいのだろうか。
日本の良さを語れない、語る前提の思考さえ制御されてしまうという「異常な状態」に、日本が借金まみれになってしまった本当の原因が潜んでいるんじゃなかろうか。
僕は一応、経営者だ。経営者の仕事は会社をより良くする事だ。会社をより良くするために、社員に頑張ってもらわねばならない。そのためには会社を愛してもらわねばならない。愛社精神の醸成が僕のとても大切な仕事だ。会社への忠誠心を高めて経営効率を高める。これは経営者なら誰もが目指す当たり前の形だ。原監督だって就任後、直ちに「ジャイアンツ愛」を標榜してチーム愛を喚起し、見事に日本一を勝ち取った。
国を良くするのは政治。だとしたら、普通に考えて政治家は「愛国心の醸成」とか「国に対する忠誠心向上」という事がとりもなおさず彼らの仕事だろう。それがどうだ、今のリーダーのだらしなさは。「最小不幸社会」ってどっからくる発想だ? 噴飯モノとは正にこの事だろう。倒産寸前の会社の社長が「君たちはこんな会社に勤めていて本当に不幸だ。でもその不幸を皆で分かち合うことで最小限にしようではないか!」と標榜しているようなものだ。どれだけトンチンカンなんだ。「お前のせいで不幸なんだよ!」ってことだろう。リーダーであればこそ「俺も頑張る。日本人よ、日本の為にもっと働こう!」というメッセージを発するべきだろう。「ジャイアンツ愛」が美しければ愛国心だって美しいはずだ。
国に話を戻すと「国民のために頑張ります!」「だからお前らも国のために頑張れ!」というのがまずあるべき形だ。でも、僕だけじゃなく、戦争体験を想起させるような言葉には自動的に制御や警報がなる仕組みが日本人には組み込まれている。コミンテルンの政治活動、GHQの占領政策の威力はなんとも凄まじい。戦争はもう70年も前の出来事だし、共産主義もとっくに閉店ガラガラだ。外国人に埋め込まれた心の制御装置を外す事を真剣に考えないと、純粋無垢な子供たちに借金まみれの人生を用意する事になる。自分の世代の義務を果たすことなく、下の世代にそのまま丸投げか?
そんな厚顔な生き方はまっぴらだ。
200万人を超えた生活保護受給者に投入される税金は3兆円を超える。平成の大横綱、白鵬の故郷、モンゴルのGDPは約6000億円だ。またある試算によると、なぜか分からないが反対者がいる「納税者番号」による厳格な納税管理、つまり脱税の取り締まりを強化することで約10兆円の税収が見込めるという。分かりやすくいうと、10兆円も脱税している人や企業がいる、という事だ。どうした日本・・・ という気にならないだろうか。
戸籍がOKで納税者番号がNOとはいったいどんな思考構造なのだろう。戸籍制度がある国は日本と中国と台湾しかない事を知っているのだろうか。住基ネットの導入時も「プライバシーが云々・・・」と。いったいこの国はどこまでトンチンカンになっちまったんだ。
「愛国心」を醸成する事でノウノウと脱税をしている「非国民」が減る、ないしは減るための政策が打てるんじゃないだろうか。「そんな事を言いだしたら日本がまた戦争を・・・」 ふーん。そんな当たり前のことで70年も前の時代に戻るのかしら、果たして。そもそもこの情けない日本の状況を直視すると、戦争するほど勇気ある日本人なんていないんじゃないだろうか。さらに言えば、日本が再び侵略戦争をする極めて薄いリスクと、一日630億円の借金が増えている現実リスクとどっちの方が危ないんだ!!ってことだろう。どっちにしても、自衛隊は守る兵器しか持っていないから物理的に戦争を開始するのは不可能だ。
愚痴ってもはじまらない。そもそも、仕事を頑張っている理由のひとつに「政治に文句を言う前に自分の義務を果たし、自分を守る=会社を守る」っていうのもある。自分たちがやらねばならないこと、公器である会社としてあるべき姿の本質を今一度考える。つまり会社も国も、「何に向かって頑張るのか」を明確に定義する。個人や組織の威力を集約して、困難を乗り越えないとならない。
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そもそも、日本人は、戦後のGHQの占領政策から、「何に向かって」という生きる上で一番大事な「方向性を考える」、という思考回路を奪い取られてしまった。戦前の日本には「何に向かって」という目標設定がいつも明確にあった。僕なりにもっともシンプルに解釈するならば「国を守る」というものだろう。司馬遼太郎好きなら誰もが熱くなる幕末の日本。戦前の日本はそのまま明治維新の延長線上にある。むしろ、明治維新の終着点として、西洋と雌雄を決せざるを得なかったのだろう。
「隣国がアヘンでボロボロにされて植民地化されていく中で〝参勤交代〟してる場合じゃねーだろ!」
明治維新をシンプルに表すとこんな感じだろうか。「国を守る」ため「封建制度や幕府を倒す」という構図だ。一万円札の人、福澤諭吉は国を守るため「独立自尊」と「富国強兵」という思想を説いた。明治から昭和初期は、欧米列強から「国を守る」事に皆が一丸となって頑張った歴史そのものだ。しかも福澤を始めとするリーダーたちの示した目標設定が、いずれも高邁な理想を追いかける文学的で美しいものであった。だから、国がまとまった。今の敵は誰だ? 誰から「国を守る」のだ? 欧米列強か?北朝鮮か? ・・・自分たち日本人だろう。自分たちで使う税金が足りないって事は、自分たちで自分たちの国を滅ぼしてるって事だろう。ひとつにまとまる事に、戦前と同様の危険があるなどとはとても思えない。もちろんリスクを否定するつもりはない。でも、飛行機が落ちない確信があるか? 電車が事故を起こさない確信があるか? 世の中にリスクのないモノはない。リスクと実りの相対で成り立っているのが世の中だ。
閑話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
よく戦前の日本とナチス・ドイツが同様に語られるが、ナチスがナチスたる最大の所以は、ホロコースト、即ちユダヤ人を壊滅する「民族浄化」を国の政策として行った、という事実だ。戦前も戦中も日本にこんな政策は存在しない。今となっては悪名の方が高い満州国も「五族協和」を建国理念とし、ホロコーストとは正反対の性質のものだ。大阪市・橋下市長の方向性ある政治手法を「ヒトラーだ!」という稚拙な批判をする文化人も多いが、どっからどう考えても現在の日本の一市長が、ある民族を地球上から消し去る政策なんて取れるはずはないから、ヒトラー足りえるはずもない。そもそも論で言えば、人類の歴史は侵略と殺戮の歴史だ。長時間かけて、多大な犠牲をはらって、ようやく現在ある「一定の均衡」と「一定の平和」が「一定の地域にのみ」与えられているだけだ。人間はそんな美しい生き物じゃない。
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親父とお袋の力を借り、今手義明という高校・大学の同級生と二人で15年前に「有限会社ドーム」という会社を創った。当時の目標、否、自分の想いはただ一つ「会社を潰さない」事だった。それは同時に「自分の生活を守る」という絶対負けられない戦いでもあった。明治維新の頃の日本と同じだろうか。なんとか潰さずにやっと辿り着いた10年目、初めて「中期経営計画」なるモノをこしらえた。現在の財務部長・吉田と二人三脚で作ったものだ。吉田部長にはノイローゼ気味になるまで頑張ってもらった。中期計画というのは、それほどまでに苦しい苦行にも似た自分との戦いである。
「自分たちは何だ?」と。
「自分たちは何の為にどこに向かうのか?」
という答えのない答えをグリグリ掘り下げなくてはならないからだ。当時の売上も50億円近くまで達していた。設立当初を考えたら十分過ぎる規模だ。で、中期経営計画なわけだから「XX年にXX円」という具体的な売上目標が必要だ。でも
「なんで売上が必要なんだ?」
「売上増やす意味あんのか?」
「利益ってなぜ必要なのか?」
という答えが全然見つからない。振り向けば10年間「会社を潰さない」という「潜在目標」の為にやってきたという「本当の自分」が見えた。なるほど・・・ それに気付いたときは解決の糸口が見えた気がして、モヤモヤが一気に吹き飛んだ爽快な気分だったのを今でもはっきり覚えている。
「そうか、自分の心を魅了する新しくて崇高な目標を作らねば!」
当時も様々な目標は掲げていた。でも肝心なのは心に響く「本当の目標」だ。色々な目標を掲げてきてはいたものの、本当の目標は心の奥底に沈殿凝固した「会社を潰さない」というモノ、そしてそれは自分の中にある内なる敵に思えた。「えーい、俺は何て小さいんじゃ!俺自身がボトルネックか!」と、心根の大掃除をした。見えてきたのが新しい定義と目標だ。
「家内性企業」「社会性企業」「社会貢献企業」
心の掃除をしたら、答えは案外簡単だった。よし、これからは「社会に貢献できる会社になろう!」という方向性が心にすーっと落ちてきた。
「家内性企業」・・・会社の存続自体を主たる目的とする。自分の生活を守り、社員を守る。
「社会性企業」・・・会社の存在自体が社会性を帯び、取引先の家族を含む多くの人々への一定の責任を持つ。一定の雇用を守り正しく納税をする。
「社会貢献企業」・・・大きな規模で事業を展開し、社会貢献の為、企業活動とは同一線上にないモノも含み収益を再分配する。雇用機会を最大に広げ、多額の納税や寄付活動を行う。
大企業であれば当たり前の話かもしれない。でも、僕自身、こんな定義ができた事で、目指すべき方向性が明確になり、モチベーションがグーっと高まった。むしろ、いてもたってもいられない状態になった。ついさっきまで心に沈殿していた「潰さないように・・・」などという思いは「社会貢献できるカッコいい会社になりたい!」という新しい目標に置き換わった。その為には、とりもなおさず頑張ることだ。社会に貢献できる会社を目指し、社員全員と目標を共有し、一丸となって頑張ることだ。その為に金を稼ぐのだ。
ちょっと戻って、日本はどうだろう。世界はどうだろう。
こんな日本でも、まだまだ世界第三位の誇るべき経済大国だ。一方、世界に目を向ければ約9億人、つまり7人に1人が飢餓状態だ。これだけ見ても日本が「目指せ、世界貢献国家!」と声高らかに宣言する価値は十分過ぎるほどあるだろう。こんな大きく素敵な目標を掲げれば日本国内で抱える問題など、一蹴できるものばかりじゃないか。
議員定数削減、公務員改革、ガレキの処理、増加する生活保護受給者、脱税・・・
みんな自分の事ばっかり。利己主義の蔓延。
・・・もういいだろう。自分を助けるのは人の為。国を助けるのは世界の為。
自分の為は人の為、国の為は世界の為、一生懸命働こう。世界に貢献できるカッコいい国を目指そう。
・・・
当たり前だけど、企業は人だ。国も人だ。
明治維新から昭和初期の日本は文字通り「家内性国家」だ。
人に例えるなら、それは「青春時代」とも言えるだろう。
青春時代・・・一言で言うなれば「キラキラ輝く」時代じゃないだろうか。
なぜ青春時代は誰もが輝きを放つのか。
それは
知らないことを知るから。
出来なかったことが出来るようになるから。
出来なかったことが出来たとき、キラキラした笑顔がこぼれる。
青春時代は、誰彼区別なく訪れる。身体が成熟する訳だから、必ず起こる。
初めて飲む酒・・・ 激しい恋愛・・・ ワクワクドキドキの海外旅行・・・ 戸惑いだらけの上京、一人暮らし・・・
知らず知らずに未知の世界に足を踏み入れる。無自覚のままに新たな挑戦を続ける。
時には傷つき、時には喜び・・・
そうして人は輝く。
ある一定の物事を知り、出来るようになれば、人は生活していける。
そんな生活に甘んじたとき、人は輝きを失う。
新たな挑戦を止めたとき、輝きはくすみ始める。
仕方ない、と諦めたとき、
知らないことへの興味がなくなったとき、
分からないことを、上手くごまかせるようになったとき、
ダメな自分を直視出来なくなったとき、
なんとなく普通に物事が進むようになったとき、
そんな時に、人は輝きを失う。
高い目標があれば、人は挑戦を続け、輝き続ける。
高邁な理想は人生のガソリンだ。
輝いていたいなら、
生きるために必要な知識や所作だけで、満足してちゃダメだ。
高い目標を掲げ、心を枯渇させる。
「世界に貢献できる立派な国」を目指す。
高い理想に生きる「誇り」を持つ。
まだまだやれる。もっともっと出来る。
・・・
2011年は、戦後最大の「日の丸」露出率であった事は間違いない。
どこもかしこも「頑張ろう日本!」という「日本コール」に包まれた。心の制御装置のもっと奥にみんな「日の丸」があるんだろう。家族愛、郷土愛という本能を基礎とする母国愛。多くの人々が日本人の美徳、日本の美しさに気付き、失われた自然に心を痛めたことだろう。みんな日本という国が大好きな事に気付いたんじゃないだろうか。
だからこそ、
ピンチの時の「日の丸頼り」ではダメだろう。
心の制御装置を外し、高い目標を定めよう。
世界に貢献できる国。世界に貢献できる人。
今を生きる我々は、
小難しいイデオロギーなんて脱ぎ捨てて、
素敵な目標を胸に抱き、
日々、爽やかに、新しい挑戦を続けよう。
キラキラ輝く人生を歩んで行こう。
〆