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社長コラム:PRESIDENT’S COLUMN

vol.039「諸行無常」と「人の尊厳」

春になると玄関付近のアリの活動が活発になる。一日にして、巣の周りは砂だらけになる。数々の働きアリたちが巣作りのために地中の砂を運び出すからだ。驚くべきはその砂の量だ。一日でコップ一杯分くらいの砂が運び出される。さぞかし豪華な巣ができていることだろう......
次の日、雨が降る。砂は流され、巣は水浸しだ。
そして雨は去り、日が昇る。
働きアリたちは、何事もなかったかの如く、また穴に戻り、せっせと砂を運び出す......

祗園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、
唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、
偏に風の前の塵に同じ。
..........................................

ゆく河の流れは絶えずして、
しかももとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、
かつ消えかつ結びて、
久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人と栖と、
またかくのごとし。
たましきの都のうちに、棟を並ベ、
甍を争ヘる、高き卑しき人のすまひは、
世々を経て尽きせぬものなれど、
これをまことかと尋ぬれば、
昔ありし家はまれなり。

『平家物語』と『方丈記』
平家であらずんば人にあらず......栄耀栄華を極めた平家の盛衰を描いた平家物語。
鴨長明自らが幾度も大災害(大地震や飢餓)を経験し、その体験から人生の儚さを描いた方丈記。

祇園精舎(寺院)で修行している僧侶が臨終を迎える時、寺院の鐘が鳴り響く......今ある「命」を「常」、即ち「当たり前のこと」として捉えるならば、祇園精舎で鳴り響く鐘の音は「常」などそもそも存在しないこと、つまりは「当たり前のことなどなにもないんだよ」ということを教えてくれる。どんな天下無双の武士であれ、栄華を極めた殿様であれ、最後は誰も同じように朽ち果てる、まるで風に舞う塵のごとく......

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」
読んで文字の如く、川の水は永遠に流れ続けているが、その水は今見た水ではない――即ち川として当たり前に成立している物体は、実は中身がずっと入れ替わっているんだよ、という事実を改めて教えてくれる。それは川だけじゃなく街も同じ、ずっと同じ家がある訳じゃなく、同じ人が住み続けている訳じゃない、むしろ古くからずっと存在する家の方が稀である......

何をやっても上手くいかない時、頑張っても報われず、心が折れそうな時、何故か心に浮かぶこの二つの古い話。どちらも絶妙な比喩表現で「無常観」という絶対的な真理を心に突き刺してくる。僕なりの「無常感」の理解は「期待をしない」ことだ。多少説明を加えると「自らの欲に基づく期待をしない」こと。誕生来、様々な困難を克服してきた我々人類の辿り着いた一つの「悟り」、僕ごときの下手な解釈よりそれぞれの心の響きを感じることが正しいであろう......が。

人は生まれながらに野望、願望、欲望、煩悩など「欲」というモノが備わっている。そしてそれに向けて努力をする。故に社会は進化する。厄介なのは「努力=結果」ではない、という現実だ。

僕が子供の頃はどんなに寒くても水で顔を洗った。冷たいご飯はお茶づけにして食べた。暑い夏は窓に風鈴をぶら下げて、パンツ一丁で部屋で過ごした。
今はどうだ?
蛇口をひねればお湯が出る。レンジでチンすれば何でも出来たてのように温かい。夏にクーラーのない部屋を探す方が困難だろう。

この際、政治の在り方などどうでもいい。個々の精神の問題だ。小さな欲が満たされてくると人は傲慢になる。欲が満たされない状況に陥るとイライラする。努力で満たされた訳ではない幾多の欲望が煩悩となり、正当な判断力を失う。そもそも「人の世は不確実なもの」という現実を見失ってしまう。

重篤な病気を持って生まれてくる子もいるだろう。
建てたばかりの家が傾いてることもあるだろう。
財産をはたいて買った株が暴落した、という人もいるだろう。

本当は不確実なことばかりなはずが、努力が報われないと、凹む。なぜ俺だけが、と嘆く。不幸が訪れると、恨む。他の幸せを、妬む。

否否、そもそもこの世は「諸行無常」だ。

「平和でモノ余り」とも言われている時代だが、地球全体に目を向けると、未だ6億人以上の人々が飢餓状態だ。日本だけが「平和ボケ」なだけだろう。「常」など無い。「普通」という状態はそもそも存在しないのだ。そう思うと、下げてた首が上を向く。少しだけ前向きになれる。小さな努力を始められる......苦しい時、いつも自分に問いかける、
「何を期待しているんだ? 嘆いていれば神様が不幸な俺を救ってくれるのか?」

......

「んじゃ、行けるところまで行ってみよう」

誰から言い出したか忘れたが、3月19日、ガソリンを満タンにしたアルファードハイブリッドにDNS「ジェルエックス」をできるだけ積み込んで、我々は北東方面へ進んだ。

震災から一週間 ;

被災地の状況がつかめない。
緊迫する原発処理、
東京にまで及ぶパニック。
雨が危ない、恐怖を煽る怪メール。
モノがない、水がない、
ガソリンスタンドは大行列。

目の前の恐怖を自身で消化できない人々が、ヒステリックに物を買い占め、他人を糾弾し、闇雲な判断の下に恐怖を煽る発言を繰り返す。じっと耐えることすらできず、得体の知れぬ不安を他人にまき散らすことで一定の安心感を得ている......当時の東京はそんな感じだった。

新しく執行役員になった福田純康副本部長から、直ちに配信されたメールには「我々は助けてもらう側ではなく助ける側にいる」と記されていた。そのメールによって自身の立場が明確になった。むしろ厳然たる唯一の真実と出会った気分だった。
「現場は混乱していて行くだけ迷惑」という空気が蔓延していた。本当か? 誰がどんな見地からそんなこと言ってんだ? 未曾有の災害で誰が正しい判断ができるんだ? そうこうしているウチに東京はどんどんモノが無くなり、外資系企業はクローズし、西へ逃げる人まで出る始末だ。「助けられるより助ける立場」の我々が足を引っ張ってどうすんだ。憤りにも似た闘志が湧いてきた。「迷惑だったら戻ってくればいい。状況が分かるだけでもいいじゃないか」。

ガソリンの補給が見込めない中、東京まで戻れるぎりぎりの距離を計算し、福島県の小名浜まで何とかたどり着くことができた。茨城から福島に入ってからの緊張感は経験したことの無いものだった。街の惨状は言うまでもない。役場に着くと入口に「死亡届以外の業務は全て受け付けません」という張り紙があり、緊張感を際立たせた。迷惑かもしれないが、役場のドアを開け用件を告げた。
「そうですか。遠くからわざわざありがとうございます」、笑顔で受け入れてくれた役場の方、疲労の色は明らかだ。そして4人の役場の方々が荷降ろしを手伝ってくれた。「勝手に押しかけたのですから、我々で勝手に置いて帰りますから......」断っても断っても手伝ってくれる。そして「今日ははるばるご苦労様です」「このまま帰るのですか? 申し訳ないです。こんな状況なので何にもできず......」こちらを気遣ってくれる発言に、どんな言葉を返しても嘘っぽくなってしまう。込み上げる感情を抑えながら、「いえいえ、皆さまのご苦労やお悔やみに比べたら...」、そう心の中で呟くのが精一杯だった。邪魔にならないよう、急ぎ作業を済ませてその場を立ち去った。
信号も消え、人も消え、船が陸に上がり、がれきに埋まった街をもう見ることはないだろう。
でも、油と泥と塩と埃の入り混じったあの"すれっからした"臭いは一生忘れられないだろう。

......

数々のスポーツイベントが相次いで中止になった。相撲も野球もゴルフのない週末が続いた。


「そんなことをやっている場合じゃない」と。

本当にそうだろうか?

現地に行き、一番強く感じた疑問だ。一週間、被災地は必死だっただろう。ただ一週間、24時間ずっと頑張り続けられるはずがない。ほっと息を抜くことが必要だろう。一瞬でもいいから嫌なことを忘れたいだろう。笑顔だって必要なはずだ......生きているのだから。

電気もガスもない被災地は寒く孤独な時間だけが過ぎる。明日を頑張る活力が欲しい。今を生きる勇気が欲しい......僕ならそう望むだろう。ラジオから流れる音楽がどれだけ人々の心を温めるだろう。冷たいものより温かいもの。石鹸よりもシャンプーで髪を洗いたい、ヒゲを剃りたい、古着よりも新しい服を着たい。元気が出る歌が聴きたい。大好きなスポーツを観たい。それは贅沢だろうか? 作業ができない老人の方々は24時間、避難所で時を過ごす。寒さに震えながらじっとしてるだけの生活が1週間も続くなんてあってはいけないのではないか......。

"尊厳"

東京へ戻る車中、この言葉が心に浮かんできた。生きている。生きている限り人間だ。人間が人間であるために必要なこと......
尊厳という言葉の意味と重みをずしんと感じた。

選抜甲子園大会の開催と東北高校の出場、これが一つの呼び水となって各種スポーツイベントが再開され始めた。どんな状況においても、人間らしさを求め、それを支えに時を過ごす。人間が人間として生きるための必要条件だとも感じた。「スポーツ産業は余暇市場」と簡単にはくくれない、そう思った。衣食住だけでは人は生きていけない。スポーツ産業は人間が人間として生きていく上で不可欠な産業である、そんなことを感じるとメラメラと闘志が湧いてきた。
戦後の復興を感情側面から支えたのは間違いなく"力道山"と"美空ひばり"だ。外国人レスラーをバッタバッタとなぎ倒す力道山に、敗戦により折れかかった心をつなぎとめられた人が何人いただろう。類まれな歌唱力とハツラツとした表現力を兼ね備えた美空ひばりの歌声に、ふさぎこもうとする心を無理やりウキウキとさせられてしまった人が何人いただろう......選抜甲子園大会の成功と、満面の笑顔で東北高校を応援する被災地の様子を見て、ますますスポーツの意義の大きさを確信した。
何かの因果で生まれてきた私たち。そして何かの因果で助ける側に回った自分。私たちは、またアリのように必死に働かねばならないだろう。困難にも挫けることなく、一生懸命頑張り続けねばならないだろう。アリにできることくらい俺だってやってやる。

でも、俺はアリじゃない。

もう迷わない。 アリのように無心で働きながら、いついかなる時も胸を張って「スポーツの素晴らしさ」を伝えていこう。スポーツは人が人として生きていくため、人の尊厳を守るために不可欠な尊い活動である。

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