vol.022「人生に立ち向かう人、飲み込まれて生きる人」
前向きに生きる。そんな当たり前の「いい言葉」がある。私は特に「前向きに生きよう!」などと自らを奮い立たせるといったことは少ないが、根が楽天的な性格からか、いつの間にか「前向き」にモノを捉えてしまう。学生自体、本当に重要な試合に負けた時「人生の終わりだ」とも思ったが、それと同時に「こんなに精一杯戦って負けたんだ。次のステージではこの敗戦が確実に生きてくるだろう」とも思え、比較的に冷静に敗因を分析していたりする自分がいた。最近もそうだ。どんな嫌な出来事に巻き込まれても、「ああ、若い時にこんな経験ができるなんてなんてラッキーなんだろう。もう二度とこんな嫌な思いはしないで済む」と思ってしまう。上手くいかないことがあれば「神様の与えてくれた試練だ、踏ん張って乗り切ろう!」と明るく考えてしまう。のん気な性格ではあるが、いいことばかりがある訳ではない長い人生、明るく楽しく生きるためには比較的「便利な性格」といえよう。と、同時に昔、親から言われていた「若いときの苦労は買ってでもしろ」というセリフに妙に納得、「ふむふむ、先にやってしまえば後が楽だ」という考えがいつの間にか染み付いてしまったのかもしれない。結局は「楽」が欲しいから先に苦労しよう、ということだ。苦労の先送りはなんとも気分が悪い。
世界No.1経営者と言われた人に米GE社の前CEO、ジャック・ウェルチという人がいる。彼の経営哲学をまとめた本に「Control Your Destiny or Someone Else Will」というのがある。この意味は「自分の運命を支配するか、他の誰かがするのか」といった趣旨である。
全くもって僭越ではあるが、私はこのたった一文に非常に共感が持てるだけでなく、人生という大冒険の大きなカギが隠されていると思っている。
朝起きて;
「なんだよう、もう少し寝たいよ。」
「もう朝かよ、いやだなあ、今日も仕事だ。」
「ふー、今日の会議、憂鬱だなあ。」
と思うか
「よーし、今日も張り切って頑張ろう!」
「さあ、朝だ。今日も気持ちがいいなあ!」
「今日の俺はやるぞー!」
と思うのではその日一日がまるで違うだろう。たとえやることが同じでも、「いやだなあ」と思ってやるのと「やるぞー」と思ってやるのとでは、細かい質に違いが生まれ、またその細かい質の積み重ね、蓄積が最終的に、その人の人生を彩っていく。
私は学生時代のクラブ活動においては「個人練習」という物にそれほど重きを置かなかった。むしろ、毎日の練習、一本一本のダッシュ、練習中の一つ一つの動きに徹底的にこだわって練習した。多分、周りから見たらそれほどの違いはないだろうが、自分の実力はメキメキ上達していった。つまり、普通の練習とは基本的に意味のあることの集大成であり、それをしっかりやっていればある程度の力量は必ずつくはずなのだ。それを「この一本はいいや」や「次のメニューに備えて力を温存しよう」などと、自分勝手に強弱をつけることにより、選手の上達は妨げられるのだ。通常の練習は密度の濃いものである。ついていくのも必死なくらいだろう。その中でも一本一本に精神性を込めて集中するところから上達は始まるのである。つまり、「練習をやる」のであり「やらされる」のではない、ということだ。
そして、不思議なことに、日々の練習に必死に喰らいつき、一本一本に集中していると、自分の技量の足らない部分がはっきりと見えてくる、つまり練習のなかで明らかに自分が苦手としている部分や足らないと思える部分が浮き彫りになってくるのである。そこで初めて「個人練習」の登場なのである。基礎があっての上積みである。固い基礎がないと上には何も積めない。中途半端な基礎を作ってみても、結局その基礎は緩く不安定、そして必要に駆られて、もう一度似た様な中途半端な基礎を作る、という「基礎作り」で一生終わってしまう。何を産み出すわけでもない固い基礎、ぱっと見た目にはそれほど華やかでもない基礎、固めようと思うと苦労する基礎、そんな基礎を作るのはすべて「前向き」姿勢なのである。前向きな姿勢があればこそ、つまらないことからでも何かを感じ、ちょっとしかことからも何かを学べるのである。「前向き」な姿勢は生きる上での最も重要な前提条件だろう。
そんなちょっとした積み重ね、そして瞬間瞬間の「姿勢」が
「自分の運命を支配するか、他の誰かがするのか」
という意味であると思う。私なりの言葉に直してみると;
「人生に立ち向かう人、飲み込まれて生きる人」
とでも言うべきか。毎日毎日、同じ一日、笑っても泣いても、不平を言っても同じ24時間、どうせなら前向きに「えいやー」と立ち向かってみてはどうだろうか? そんな微妙な心構えの蓄積が自分の人生を大きく変えるのだと、私は信じている。