vol.021「若さ」とは?
熱戦の続いた甲子園。自分が何歳になろうとも、見るたびに心が熱く燃え、すぐに「あの頃」に戻してくれる。甲子園で繰り広げられるドラマは毎年毎年、キャストやシナリオを変えてはその時代時代の人々を魅了して止まない。若者の発する圧倒的なパワー、そしてそこから感じられる無限の可能性に我々大人たちはもう戻ってはこない「若さ」をうらやみ、また思春期の自分を思い出しては懐かしむ。「敗北」という巨大なる現実を「素」のままに受け止めている若者を見ては、いつも少しづつ現実から逃避している今の自分を省みる。若武者達が発するその「清々しさ」は例えようのないオーラを放ち、時代や国境、人種や宗教等々あらゆる障害を超えて人々の心を打つ。
「若さ」とは一体なんであろうか。
「若さ」の持つ、最大の魅力は「可能性」だと思う。
思春期、身長はもうそれほど伸びはしないだろうが、人生における可能性の「ノリシロ」はまだまだ無限に広がっている。努力次第ではあらゆる可能性の扉を自ら開けることができる。反対に、「若くない」ということは「可能性が限られてくる」ということであろう。
最近、石原慎太郎都知事が「老いてこそ人生」という本を執筆し、ベストセラーになっている。私、いまだ32歳、いくら趣味が読書とは言え、まだまだこの本を読む域には達していない。が、先日とあるレストランでたまたま石原都知事とその友人たちのテーブルと席が隣となる機会があった。彼、すでに70歳を迎えようという高齢であるが、まずその容姿、その声、発するオーラ等々どれを見てもその年齢をまったく感じさせない異様なまでの若さが感じられた。彼は70歳を迎えてなお、様々な可能性に燃えているのだろう。東京都政の更なる改革、のみならず国政への「首相」としての復帰等々、、、政治家としての本懐を今まさに楽しんでいる様子が伺える。それはまるで甲子園を目指して日々鍛錬する若者達と同じ部類の「日常」ではあるまいか。片や政治家としてその頂点を目指し、片や高校球児としてまたその頂点を目指す。奥底には自分の可能性への挑戦と、また逃れようのない「敗北」という厳しい現実を受け止めてやる、というその気迫。それらが相まって清々しさを醸し出し、「若さ」となって現れるのだろう。
記憶をたどれば、高校生の頃から「爺くさい」ヤツは多かった。クラスの2/3くらいのヤツ等はどちらかというと保守的な部類に入る人間であったように思う。私の所属していたアメリカンフットボール部は約100名程の部員が在籍していた。私の学年は25名、そのうちレギュラーポジションを獲得できなかった選手は5名ほどいただろうか。引退が決まった最後の試合のあと、レギュラーを獲れなかった自分を悔い、恥じ、泣きじゃくる選手もいたが、比較的淡々と「来年はもっと上に行けよ」などとまるで他人事のようなセリフを吐く選手もいた。キャプテンだった私はそんな他人事のようなセリフを吐く選手に得体も知れぬ違和感を覚えた。自分の引退が決まった直後、後輩のことなんて本来どうでもいいはずだ。まず、自分の敗北をどう受け止めるか、そしてそれを包み隠さず後輩に見せてやることが先輩として最も大切な役割ではないか。「俺の努力が足らなかったから、こんなところでこんなに悔しい思いをしている。『あの時、もっと頑張っていれば』、なんて思ってももう遅いってこと今分った。俺みたいな悔しい思いをするな。」と。
つまり「若くない」ヤツらは高校生の時からすでに「若くない」のだ。瞬間瞬間の自分を守るのと同時に将来の「可能性」の扉に自ら「カギ」をかけてしまっているわけだ。反対に、当時の悔しさをそのまま素直に受け止めて生きている人々はいつでもすぐに「挑戦者」に戻れるだろう。人生における「挑戦者」である限り、そこには「可能性」が広がるだろう。そしてその「可能性」がある限り、その人は「若さ」を保っていくのだろう。
「スポーツ」
「スポーツ」こそ、人生の縮図だと思っている。種目は何でも構わない。努力と根性、あるときは図々しさ、自分ではどうすることもできない運、天から授かった才能。それらを総合して「勝ち負け」が決まる。人生も結局は「勝ち負け」の連続である。普段の生活では、なんとなく見えづらかったり、目をふさいでいたりするだけであろう。生きている以上、「負け」は常である。その「負け」に対してまるで他人事のようにさりげなく通り過ごすのか、またはその「負け」を「素」のままがっちりと受け止めて「将来」の為の肥やしにしていくのか。
今の高校球児たちが決して燃え尽きることなく、いつまでも燃えたぎる熱い血潮を心に持ち続け、不屈の闘志を持って「人生」という新しい甲子園で永遠に続くであろう「勝ち負け」の世界をまっとうしてもらいと心から思う。
「スポーツが21世紀の日本を救う。」
そう胸を張って言える様、今日も勝負に挑み、自分の可能性を追求して行きたいと思います!
「勝敗は兵家も事期せず、羞を包み、恥を忍ぶは、是れ男児。」
杜牧
勝敗というものは、兵法家であっても、予知できるものではない。恥を耐え忍ぶこと、それこそが男児というものだ。