vol.060変わらぬ価値
1月17日のキックオフパーティーで行った
プレゼンテーションの全文を掲載します。
明けましておめでとうございます、と、言いたいところですが、今年のテーマは
「夜明け」
というか、夜明け前です。すなわち、明けていません。ですので、「おめでとう」は、設定上言えません。なので、こんにちは!
ドームは昨年、ここ5年間続けてきた約25%の年平均成長率が、なんとたったの9%にとどまり、大変苦しい1年でした。報道などでご存じの方も多いかと思いますが、この現象はアメリカのアンダーアーマー社とも連動しており、アンダーアーマーブランド全体の問題を指摘するような記事も散見されました。
そうです。「夜」です。
昨年のこの日、ドームは「アンダードッグ」として、「既得権と戦うんだ!」 と、威勢のいいことをお話ししました。現実はどうだったでしょうか。
安田が総監督を務めた法政フットボールは敗れ、大学改革は思ったよりも課題が多く、挙げ句の果てに、本業のドームの予算は大きく未達、振り返ると空回り感は否めず、疲労困憊、「真っ暗」な夜の闇に突入してしまったのが、2017年でした。
真っ暗な世界に突入してしまった原因は、決して私、安田のせいではなく、社会構造の変化のせい。そうです、つまりここ、そして全国でこの中継をご覧になっている、皆さんのせいなのです。
この状況、ドームジャーナルをお読みの方はご存じかと思いますが、今、社会は大きく変化をしています。皆さんのせい、と言いましたが、もう少し説明すると、皆さんがお持ちの「スマホ」のせいです。こいつを持った若者たちが今、大きな勢力となって社会構造を根本から変えようとしています。
まず、この現実をしっかりと受け止めること。そして、社会構造の変化に対する準備期間を「夜明け」というテーマとして、設定しました。アクセルを少し緩め、来るべき新たな朝に向けた準備をする。「DAWN」にはそんな意味が込められています。
さて、「おふくろさん」です。
昨年は本当に激動の1年でした。公私ともにです。社会構造の変化への対応、私生活のあり方、うまくいったこと、全然ダメだったこと。勝利や敗北、数々の失恋と、いろいろ経験しました。そして、1年を緩やかに振り返りながら、安田はいつのまにか、生まれてからの自分の生涯を振り返っていました。
「自分の人生は果たして上手くいっているのか」
「自分は正しい人生を歩んでいるのか」
率直に申して、中年の独り者である安田の人生は、そんなに上手くいっているわけでもなく、胸を張れるほど正しいものでもありませんでした。そして夜明け前の安田は、新しい朝に向けて、生まれ変わるぐらいの「自己改革」が必要だということに、気づきました。
いつの間にか、まとわりついていた腹回りの贅肉、能力以上の業務。いつでもどこでも、どこか偉そうになっている自分が見えてきました。生まれ変わるぐらいの自己改革の第一歩として、とりあえずモノマネから入ってみました。お口に合いましたでしょうか?
さて、
「生まれ変わるぐらいの自己改革」
言うのは簡単ですが、そう簡単にはできそうにありません。
変わるために必要なことは何なのか。
変わる
変える
変わらねば...
考えれば考えるほど、自分を変えられるイメージが湧いてきません。
「どこから変えればよかったのか」。そんなことを考えているうちに、いつの間にか人生を振り返っていた、そんな流れです。
そして、安田は気づきました。
変わるためには、「変わらぬ価値を見抜く」ということです。変わらぬ絶対的な価値を見抜き、それを軸にし、それを自信にし、ガソリンにし、自分を変えるエネルギーにすること。そんなことに気づくと、不思議なことに安田の心の底から、ムクムクと勇気が湧き上がってきました。
「そうか。そうだったんだ。変わらない価値だけを信じていれば、変えることなど、何も怖くないじゃないか!」
「変わらぬ価値」。それには永久エネルギーのような、不思議で、絶大な威力があることに気づいたのです。
では、短い人生を振り返り、「変わらぬ価値」、その原点はいったいどこにあったのでしょうか。それが「おふくろさん」です。
人間が、最初に言葉を交わすのは母親です。
それは「はい」「いや」という意思表示から始まり、「ありがとう」や「ごめんなさい」という、意味をもつ「言葉」になっていくのでしょう。時代が変わっても変わらぬ価値、それは、生まれてすぐに、母親が教えてくれたことばかりでした。
......
安田のおふくろさん、安田サダ子、といいます。今年で75歳になります。
東京都大田区の下町にある、和菓子店の三女として生まれました。母の父、つまり安田の祖父は大変厳しい人だったらしく、祖父の葬式の際、母親姉妹たちの思い出は、父親の「足の裏」だったと言って、笑っていました。それだけ蹴っ飛ばされて育ったそうです。
私、安田も同じく、東京都大田区に生まれ育ちました。父親のしつけが影響したのか、母のもともとの性格なのか、それはよくわかりませんが、安田はわりと厳しく育てられました。物心ついてすぐのエピソードです。
ご飯を食べている時、「ママ、お水!」と言ったら、「ここはレストランじゃないんだよ」。小学校に上がる前の安田でしたが、そんな厳しい真理をズバッと突きつけられたのを、今でもはっきりと覚えています。以来、水やお代わりを人に頼んだことはありません。
「世の中にはたくさんの仕事がある。家も同じ。子どもも家族の一員だから、役割や仕事があるのは当たり前」
そんなことを言われたのは、小学校に入学した時でした。安田に与えられた仕事は、布団たたみと、家族全員分の朝ご飯の食器洗いでした。洗剤が嫌いだった母は、なぜか真冬でも、たわしと水で食器を洗う方法を安田にしつけました。真冬の凍るような水の冷たさにひるんだ安田に、親戚の豆腐屋さんの話を聞かせ、納得させました。
母は、優しいタイプの母親とは正反対です。安田は現在に至るまで、母に褒められた記憶はなく、母は子どもへのファンタジックな期待や、依存というものが皆無な人でした。愛情よりも論理で、安田は育てられたように思います。知らず知らずに、人間には「仕事」という「義務」がある、という考えが安田に染みついていきました。
蛇足ではありますが、友達には「安田のかあちゃんって怖いよね」というイメージが染みついていて、友達が極端に遊びに来ない安田家でもありました。
活発だった小学校時代、安田はそんな厳しくも論理的な母に、毎日、学校で起こったことを話すのが大好きでした。
「今日、しげと金子が先生に怒られてさあ」
「大沼先生にこんなことで褒められたよ」
などなど、毎日そんな話をしたものです。
しつけには人一倍厳しかった母ですが、安田の話をいつも楽しそうに聞いてくれました。今思えば、褒められたくて仕方なかったのだと思います。ただ、どんなにいいことをしても鼓笛隊のリーダーや生徒会長になっても、安田の期待とは違い、決して褒められることはありませんでした。
ある日、拾ったお金、たぶん数十円ぐらいだったと思いますが、それを警察に届けた時のことです。褒められたくて、すぐに母にその報告をしました。
すると、
「人はいいことをすると、神様が必ず見ていてくれて、その人にもっといいことを返してくれるんだよ」
褒めるのではなく、そんな話が返ってきました。小学校2年生のころだったと思います。褒められはしませんでしたが、単純だった安田は、その時のワクワクする気持ち、そしてその会話の内容を、まるで昨日のことのように思い出せます。
「いいことをしたら、もっといいことが返ってくるんだーー! 神様ってすげーじゃん! 俺、たくさんいいことをして、もっといいことをたくさん返してもらう!」
無邪気にそんな回答をしました。すると母は、
「お返しを期待して、いいことをしても、神様は何もくれないんだよ。お返しなんか気にしないで、いいことができる人だけに、もっといいことをしてくれるんだよ」
と、返してきました。安田は心の中で、「そっか...そりゃそうだよな。よし、お返しを求めない気持ちで、いいことをいっぱいして、もっといいことが返ってくるようになりたい!」と、目をキラキラさせながら考えました。
実際、それからの安田は、「いいことをしよう」という習性が身についたのと同時に、「神様、お返しはいりません」と心の中でつぶやくことが習慣になりました。結局のところ、お返しがほしくて「いいことをしている」だけだったのですが、この習慣が仕事における「投資とリターン」の関係の本質的な理解に、どれだけ役に立ったかわかりません。昨年、20億円以上もかけて作ったいわきFCパークも、実際は採算などまったく考えずに、「いいことをするんだ!」という気持ちだけで投資をしました。
「神様、お返しなんかまったくいりませんよ!!」
そんな風にして、意図してかしていないかは分かりませんが、安田の承認欲求を上手く使って、もっともっと上のレベルを目指すように育成されていたことは確かです。そしてその承認欲求が、よりよいことをして、より社会から認められる企業になりたい、という、現在の安田の活力源にもなっていたりします。
小学校3年生のころだと思います。
「ママ、大人ってさ、いっぱい仕事があるでしょ。パパみたいに船作ったり、コックさんだったり、歌手だったり、レーサーだったり。どうやって自分に合った仕事って見つけられるの?」
と、軽い気持ちで質問をしてみました。すると母はこう言いました。
「秀一、あなたには、宇宙みたいに無限に広がる、おっきな可能性があるの。なりたいと思うものには、なんでもなれるんだよ。そして、なりたいと思うものは、自然と自分の中からこみ上がってきて、必ず見つかるから、あせらず、その時にしっかりチャンスをつかむんだよ」
そんなことを答えてくれた時のことを、大好きな映画の一場面のように鮮明に覚えています。少年だった安田の胸はときめき「俺にはそんな可能性があるんだ!」 とワクワク感に目を輝かせていたことを、くっきりと思い出せます。
高校、大学とアメリカンフットボール部に入り、家族と食事をする機会が極端に少なくなり、その日の出来事を話すこともなくなりました。レギュラーになったり優勝したりしても、相変わらず褒めてはくれません。それどころか、練習でヘトヘトになって帰った安田が
「あー、疲れたー」
と、連発していると
「あんたの趣味でやっているんでしょ。こっちはその趣味につき合って、毎日泥だらけのジャージを洗濯してるんだよ。疲れたなんて言うな」
と、叱責されました。以来、家で「疲れた」は言わなくなりました。
それでも年に数回ですが、当時としてはとても豪華なレストランに連れて行ってもらうことで、親子のコミュニケーションは継続されました。でもこのころになると、楽しい話をするのではなく、あらゆる悩みを相談するような親子関係になっていました。
当時からキャプテンなどを務めていた安田の悩みは、監督や選手との人間関係に関わることが、多くありました。そんな時、母は
「大将っていうのはさ、人に仕事を任せられるようにならないと、その組織はでっかくならないんだよ」
と安田に教えてくれました。そして、それは安田がドームを経営する現在に至ってもなお、一度たりとも忘れたことのない教えになっています。
大人になるにつれ、話す内容はだんだん現実的なものに変わっていきましたが、一つだけ、安田の記憶が芽生えてから大学生になるまで、ずっと変わらず言われ続けていたことがあります。
それは、
「お前は大人になったら、ママにベンツを買うんだよ」
という、夢のあふれる、とても打算的な言葉です。
最近、母にそのことを聞いてみました。すると母は、
「これは私の実験だったの。刷り込みってあるでしょ。だから、お前に小さなころからずっとこれをいい続けたらどうなるのか? って、そんな思いだったのよ。子どものころのあんたは『うん、絶対に買うね!』って、毎回そんな風に無邪気に答えていたわよ。で、大学生になったあんたは、現実を知ったっぽくてさ。『俺、やっぱりお袋にベンツ買えるか、わかんない』って言ってきたのよ。え、まずいなぁーって思ったけど、『だーいじょうぶ。あんたならいつか買えるから、今はそんな心配しなくっても大丈夫』って、何とか丸め込んだりしてさ...」
なんて言いながら、ケラケラ笑っていました。
さて、実験結果ですが、皆さんのご想像通りです。見事に成功しました。安田が中古車に乗っている時に、初めてのベンツを母に買いました。その時のディーラーさんに、こんなことを言われました。
「ご両親に車をプレゼントされるお客様も、たくさんいますが、ご本人様が中古車に乗っていて、母親にベンツを買ってくれるお客様は初めてです」
思いがけずディーラーさんに褒められてしまいましたが、先ほどからの文脈を少しだけ振り返ってみると、「ベンツを買うんだよ」という刷り込みとともに、「いいことをすると、もっといいことが返ってくる」っていう教えが、相乗効果を発揮した、というのが安田の見解です。「ベンツを買うんだよ」という刷り込み、「もっといいことが返ってくる」という教え、それら「母の言葉の数々」が「変わらぬ価値」となり、知らず知らずに、自分の行動原則になっていたわけです。いずれにしても今、子育てをされている方々は、明けても暮れても「私にベンツを買うんだよ」と「いいことをすると、もっといいことが返ってくる」という言葉のセットを呪文のように唱えることを、個人的にはお勧めします。
母親に対する承認欲求が強かった安田ですが、思わぬ形でスポーツでの実績が上がり、母ではなく、社会から認められるようになり、母親の存在は、本当に困った時に相談する相手。そんな関係になっていたことは、先ほどお話しした通りです。もともと、安田の試合も高校、大学を通じて、4回ぐらいしか見に来ていない、子離れどころか、一度も息子にベタベタことしたことがない、少し変わった母親です。
中学生になったら、「これからの男子は、家事ができないとだめです」と、突然言われて、包丁さばきから鍋振り、出汁の取り方など、料理を基礎から教え込まれました。自立させることも、大きな教育方針だったのかもしれません。この教えは、今度は予言のような効果を発揮しました。実は安田は3年前に離婚しているのですが、この時の指導のおかげで、生活においてはいっさい困ることなく、むしろ料理が趣味となって、今の危なっかしい独身生活を支えてくれています。蛇足ですが、今の安田と母は、料理のレシピや、家事のコツを聞いたりする、主婦仲間みたいな関係にも、なってしまっています。
さて、晴れて大学を卒業し、大手商社に就職することができました。商社に入った理由ですが、これも小さなころからずっと言われていた
「男なら、世界を股にかけるようなでっかい仕事をしろ」
という母の言葉によるものです。安田の中に、まるでタイムカプセルが仕掛けられているかのように、世界を股にかける仕事を選んでしまいました。
とはいいつつも、実際の商社での生活は、想像していたものとだいぶ違って、あまり居心地のいいものではありませんでした。そして4年目のある日、安田は会社を辞める決心をしました。この決心に際して、最初に相談したのも、母親でした。その時の会話、もう22年も前の話ですが、昨日のことのようにはっきりと覚えています。
「俺さ、会社辞めようと思っているんだ。何のために働いているのか、ぜんぜんわからなくって。もっと俺らしい生き方があると思うんだ。だから自分で会社をやろうと思う」
当時流行していた槇原敬之の『どんなときも。』の一節「僕が僕らしくあるーために♪」。そんなロマンチックな一節をそのままに、目いっぱいの理想論で切り出しました。もともと自営業の娘でもあり、自営業の家に嫁いだ母です。安田は密かに「そうか。お前もようやくやりたいことが見つかったんだね」と、褒めてもらえるかもしれない、そんな期待をしていました。でもどうでしょう。母から出た言葉は、まったく想定の範囲外のものでした。
「あんたバカじゃないの。あんなにたくさん給料くれる会社辞めるなんて。お金をなめるんじゃないわよ」
そんなあからさまで現金な話が返ってきたのです。安田は完全に拍子抜けしました。でも、その次に出てきた言葉は、
「私が昔から言っているように、自分の大きな可能性の中で、やりたくってしょうがないような、そんな気持ちなんだったら、あんたの思うようにすればいい。私がどうこういう問題じゃないわよ」
というものでした。続けて、
「若さっていうのは、それだけで可能性なのよ」
そうも言ってくれました。
自分のことでいっぱいいっぱいだった安田は、とてもすべてを受け入れられる状態にはなく、「私がどうこういう問題じゃないわよ」という言葉に嘘がないことだけを感じ取り、会社を辞めました。
ドームを始めてから、すぐに「お金」に困りました。「お金をなめるんじゃないわよ」という母の言葉が身にしみました。ドームを始める2年前に、母の父、安田のおじいちゃんが亡くなっていました。おじいちゃんは神奈川の田舎に割と大きめな土地を持っていて、その遺産相続があったことも、母は安田に教えてくれていました。
生活費もままならない中、創業のビジネスであるテーピングの取引先のメドが立ち、大きな仕入れをする、という「大勝負」がありました。もろもろ計算すると、40フィートのコンテナにいっぱいのテーピングを積んで、1千万円ほどの仕入れです。創業してすぐの会社にそんな大金を貸してくれる銀行はありません。遺産の入った母親しか、頼りはありませんでした。でも、安田と母親の距離感を考えると、そんなお願いをできる関係にはないことは明確でした。
でも、「絶対にこの仕事をやりたい!」と思っていた安田は、意を決して、気持ちを込めて書き上げた事業計画書を持って、母の元を訪れました。
「大変申し上げにくいのですが、1千万円貸してください。こんなビジネスです...」
と、説明を始めました。安田は全身から冷や汗が出るのを感じました。息子の試合すら、ろくに興味を示さなかった母親です。安田の予想は「あんたの道楽のために、大事なおじいちゃんの遺産なんか、使えるわけないでしょう」というものでした。怖くて怖くて、逃げ出したい気分でした。
するとどうでしょう。母親の言葉は、これまた拍子抜けするほど、あっけらかんとしたものでした。
「本当はいくら必要なの? 1千万円でいいの? いつ必要? 振込? 現金?」
と、たったそれだけでした。
もちろん、それ以外にも多少の会話があったと思います。でも、安田にはその記憶しかありません。そして確かなこと、それは事業計画に対する意見も、返済に関する話も、いっさい何もなかったことです。会社に戻る車の中で、安田はあふれ出る涙をこらえることができませんでした。ありがちなドラマに出てくる、親のスネをかじって道楽する息子のように自分が思えて、どうしようもなく情けない思いでした。厳しく論理的な母がいっさいの説教もなく、大事な遺産をまだ青くさい安田に預けたのです。その時の母親の気持ちを思ったら...ますます情けなくなって、しばらく涙が止まりませんでした。
安田は、時代とともに成長してきました。今日も、ネット中継を軸としたデジタル感全開の設定です。そもそも、ここまでデジタルにしたのも、日本の新しい未来を描くはずの東京オリンピックにより、有明コロシアムが改修工事に入ってしまうため、すべてのお客様を呼べる施設がなかった、という理由もあります。その東京オリンピックは、80歳を過ぎてもなお権力を誇示したいご老人がすべてを取り仕切っています。後利用も考えず、数百億円、数千億円、という規模の建設物をじゃんじゃんと建て始めています。
安田はこの状況、つまり、正しい情報や新しい世界秩序、そういったものを何一つわかっていない人々が我がもの顔で税金を使いまくる、そんな日本を本気で「変えたい」。そう思っています。
図を見てください。日本とアメリカの人口ピラミッドの比較です。アメリカは、デジタルネイティブと呼ばれている、「ミレニアル世代」、そして、さらにデジタル化が進化した「ジェネレーションZ」という世代がマジョリティとなっています。同時に、アメリカでは白人のマイノリティ化がどんどん進行し、ダイバーシティとデジタル化、という二つの荒波と、真っ向から向き合っています。民主主義、資本主義の社会ですから、当然、社会の力学はマジョリティであり、未来を切り拓いて行くこの若い世代を中心に進んでいきます。
一方で日本はといえば、70歳前後のはっきり言って日本の将来とは関係ない世代がマジョリティであり、政治経済など社会の力学は、この世代を中心に動いてしまっています。
欧米や中国など世界の大国は、音を立てるような速さで変革を進めています。その原動力になっているのが、30代以下のミレニアル世代とジェネレーションZなのです。
我々バブル世代、団塊二世世代もそうですが、皆が同じような価値観を覚えること、周りと同質であることが価値観の頂点にあり、記憶力をつけることが有能である証でした。それは日本が世界の生産工場であったころ、高い品質の商品を、正確な納期で大量に生産することが国家の生業だった時代の考えです。つまり「マス型」の社会構造です。そして、現在の日本の基本的な構造、つまり政治や経済、教育環境や風習というものの構造は、当時とまったく変わっていません。でも、枠組みは変わっていませんが、その中身はというと、マイノリティではありながら、日本の未来を支えるミレニアル世代、ジェネレーションZ、これらの若者たちは、こうした枠組みから外れた価値観を持って、次々に社会へと出て行っています。
同質性が「善」とされた我々を「マス世代」とすれば、彼らは個性が最大の価値観となる、「パーソナライズ世代」と、呼べるでしょう。幼少期よりスマホを片手に、興味の質は各個人に委ねられ、わからないことはすぐに検索し、画一化された教科書などよりも、はるかに豊富な情報に触れることができる。そしてそれらはやがて知識や知恵となり、極限までパーソナライズされた個性となって育まれていきます。
マス型の生活様式、社内政治やお作法、満員電車に揺られる日々、年功序列、根回し、坊主の高校野球、森友学園への忖度、そんな古いしきたりや現象の数々。そんなものたちは、先進国ではとっくにゴミ箱に入っていて、「個」が台頭する、「新しい社会秩序作り」に邁進しているのです。
スマホ、クラウド、日本ではSNSと呼ばれているソーシャルメディアによって、「個」は解放されてしまったのです。同時に、みんなが同じことを平均的にやる、そんな画一的な仕事は、成熟してしまった日本にはもう存在しないのです。誰もが個性を活かし、伸ばし、活き活きと生きる。その個人が持つパワーを、最大限発揮する。そんな社会構造に変えていく時なのです。
変わらぬものは、未来ある高校生が必死に努力して成長を求める姿勢であり、坊主頭ではないのです。今の高校生は、憧れのメジャーリーガーのスイングをユーチューブで見て研究する。そんな時代なのです。その憧れのメジャーリーガーは、ロン毛にヒゲで刺青です。野球と坊主頭にまったく関連性がないことを、子どもたちはみんな知っているのです。
我々大人たちは、我々よりはるかに多い情報に満ちあふれた若者たちに、いったいどんな価値を示せるのでしょうか。
安田は時代とともに変化し、成長してきました。その時々でスキーやバレーボール、アメリカンフットボールに挑戦し、英語を学び、仕事を覚え、海外に出向き、新しいブランドを作って何とか生き抜いてきました。時代に合わせて、必死に自分を変えてきました。その時々に安田を支えてきたのは、母から教わった「変わらない価値」の数々です。意志が芽生えてすぐの「ありがとう」「ごめんなさい」。幼少のころに教わった「仕事」という「義務」。「いいことをすればいいことが返ってくる」という正義と合理性。「世界をまたにかけるような大きな仕事」「宇宙のように大きな可能性」、そんな「無限大の生き方」。安田には、これら「変わらぬ価値の数々」が、克明に刻み込まれています。
そして、そんな安田には今、やりたいことが山ほどあります。やりたいことを、何としても実現する。そのために自分が変わる。変わるために、変わらぬ価値を頼りにする。
変わらぬ価値。
その最大のものは、「感謝」の気持ちだと、安田は思うのです。
変わらぬ価値を作ってくれた、母への感謝の気持ちです。まったくの私事で申し訳ございませんが、明日1月18日は、母の75回目の誕生日です! せっかくなので、花束を渡させてください!
感謝の気持ち、それは自分が愛されている証です。愛されていることで、心が満たされ、自信が芽生え、それが勇気となり、「変わること」ができるのです。
2018年、自分を変えるため、失敗を認め、うまくいかない現実を受け入れる。そして変わらぬ価値を頼りに、感謝の気持ちを持って、来るべき新しい朝を、元気いっぱいで迎えたいと思います。
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※本コラムは、「Dome Journal vol.42」に掲載されたものです。
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