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社長コラム:PRESIDENT’S COLUMN

vol.061われわれの顧客は誰なのか

「われわれの顧客は誰なのか」
~混沌の中で真理を導き出すには~


「われわれの顧客は誰なのか」


「知の巨人」「未来学者」「マネジメントの発明者」、数々の異名を持ち、現代でも世界中の経営者に絶大な影響力を及ぼしているピーター・ドラッカーの有名な言葉です。移りゆく時代の中、グロ−バリゼ−ション、ダイバ−シティ、デジタライゼ−ション...などなど、秩序の変革の中において、私たち「オッサン」は、その変化にとまどい「複雑になった」や「俺は俺のやり方で」など、自分に都合のよい解釈をしてしまいがちです。

「われわれの顧客は誰か」

という、主語

「組織は長期的な成果を上げることを目的とする」

という、述語

のようなニュアンスで、ドラッカ−は「一見、複雑に見える社会」を「シンプリファイ(単純化)」します。

もともと、社会は変革を続けています。日時計が生まれ、暦ができ、稲作が始まり、集落ができ...道具が開発され、動力が生まれ、鉄道、電力、電話など...
それぞれの局面でその変革は、受け入れがたいような複雑さがあったはずです。

「ヒ」と「シ」がちゃんと発音できない、ビデオのタイマ−録画ができない、配線が組めない、キーボードが使えない、ポケットの中のガラケ−...いつの時代にも「オッサン」はいましたから、「オッサン化」は決して時代のせいではなく、自分のせいであるはずです。

もとより「より便利になる」という「進化」に対する本能は、人類が人類であるゆえんです。とはいえ、

WWW、CRM、デリバティブ、ナノテクノロジ−、iPS細胞、オムニチャネル、コンプライアンス、ビットコイン、フィンテック、増え続けるIDとパスワード、なぜか画面に現れる自分の嗜好にあった広告、などなど...

もはや「言葉」なのか「記号」なのかすらわからない言葉たちが新聞紙面を埋め尽くし、ネットを使えば何と何がつながっているのか、いないのか...考えれば考えるだけ恐ろしくなって「考えるの、やーめた!」と開き直っている人も多いことでしょう。

「オッサン」の自覚がある人もない人も、実年齢が若い人も、現代社会で「レギュラーポジション」をつかみ、力強く生きていくには、表面的な言葉や一般論に左右されることなく「顧客は誰か」「長期的な成果」をシンプルに追いかけることが、一つの大きなヒントだと僕は思っています。

「顧客」という相手の立場を俯瞰して見ること。「俺は俺...」「私は私...」「オッサン化現象」は老若男女問わず、皆さんの足元にゴロゴロと転がっています。

「マツキヨ」と
「ティファニー」の共通点


1932年、戦前の千葉県松戸市にひっそりと誕生した松本薬舗、現在の「マツモトキヨシ」というドラッグストアが突如、勢いをつけたのは1980年代の後半です。

それまでの「薬局」というイメージ、つまりは「病気の人が行く暗いお店」という固定観念を真っ逆さまに覆す、明るくてオープンな店づくりは当時の薬局のイメージのみならず、日本の小売店のあり方に大きな影響を与えました。マツモトキヨシは店舗の「明るさ」や「開放感」の明確な基準をつくりました。そこにたどり着くまで...お客さまを引きつけるために、薬とともに化粧品を販売したり、店頭で猿を飼ってみたり、名前をユニークなものに変えてみたり、アメリカへの視察を重ねたりと、数十年の仮説・検証のプロセス、そしてリスクを恐れないチャレンジの連続があったようです。

マツモトキヨシの誕生からさかのぼること約100年、「ティファニー」は文房具店としてニューヨークに最初の店舗を構えました。その後、宝飾品も取り扱い、高級なダイヤモンドを買い付け「キング・オブ・ダイヤモンド」と称されたり、ハリウッド映画のタイトルに使われるなど、ラグジュアリーブランドとしての立ち位置を揺るぎないものにしています。ティファニーは文房具という一般消費財から、その商売を開始しました。「値札通りで値引き交渉に応じない」という当時の常識を覆す販売方法で、消費者の信頼を勝ち取っていきました。また、ヨーロッパで起こった政変にいち早く反応し、困窮する欧州貴族たちから安く大量の宝飾品を仕入れることで、米国の富裕層が見たこともないような品ぞろえを実現し、ブランドとしての立ち位置を確立していきました。現在の優雅なイメージと反して、大きなリスクをとって変革を続けてきたことがよくわかります。

どちらのお店も創業者の名前をその屋号とし、片や薬、片や文房具という、一般に使われるモノを取り扱ったそれぞれのお店が変化に挑み続けた結果、現在のそのたたずまいはどうなっているでしょうか。

遠くからでも一目でわかる黄色い看板、開け放たれた店舗からはみ出るように陳列された商品の数々、通勤帰りの夕暮れには煌々と灯る明るい店舗に、まるで虫がライトに集まっていくかのように、人が吸い寄せられる。

他方、立ち並ぶビルの一角になじむ、まるで金融機関のような重厚なファサード、入り口にあるロゴで、ようやくここが宝飾店であることが認識される。門番が待ち構えているその重厚なドアは締めきられ、開けるのに勇気と力を振り絞らねばならない。

「わかりやすく、入りやすい」

「わかりづらく、入りづらい」

片方は、広く一般に認知度を高め、お客さまの利便性を高めるべく、品ぞろえを増やし、回転を上げていく。
片方は、信頼関係のあるお客さまに限定して、手厚いサービスを施し、見たこともないような斬新な嗜好品を紹介する。

でき上がったお店は正反対でも「顧客は誰か」と「顧客の目的は何か?」という「顧客目線の成果の定義づけ」を繰り返し行ってきたことが、共通項なのではないかと感じます。すなわち、継続的な成長を続ける上で、「顧客は誰だ?」という問題提起を続け「顧客の期待」を先取りするチャレンジを続けたことで、一方は結果的に一般消費財のベンダーとしてその立ち位置を確立し、消費者への圧倒的な利便性を提供する。
他方、ラグジュアリーブランドとしての価値を高め続け、顧客の特別感を演出し、非日常的なワクワク感を最大化する。

という、顧客目線の成果が定義付けられてきたのだと思います。

「より多くの主婦に安心感を持ってもらいたい」
「淑女のキラキラ輝く目を見たい」...
ともに創業時とは大きく異なる業態に変化していますが、そこには「顧客との対話」による「自分の価値観と顧客の期待との切磋琢磨」があり、その力学は「われわれの顧客はどんなものを求めているのか」「われわれの顧客にどうなってもらいたいのか」という「真の顧客目線」があったのだと思います。

「いろいろな自分」になって
顧客を定義


この対照的だが共通点もあるお店の話をしている理由は、

一般消費財が必要
非日常的な刺激がほしい

という、対照的な「顧客」を例にすることで、よりわかりやすく顧客を定義できると思うからです。自分の立場に置き換えてみましょう。
自分は、どこで日用品を買い、どこに1日の刺激を求めているのか。できるだけ安く手軽に買いたいという自分もいれば、これだけは譲れない! と思い、どんな手間をかけても、手に入れたいモノがある自分もいるはずです。
すなわち、顧客は「高校生の男子」など「ターゲット」と呼ばれるような狭い概念ではなく、日常の生活の中で個人が意思決定をする上でもつさまざまな「顔」を多面的に捉えて定義することが重要、ということです。

チラシはどう打つべきか。
ホームページはどうあるべきか。
ソーシャルメディア(SNS)はどう使うのか。
ポイントカードは!?
キャンペーンは?
営業は...?
新聞をめくれば、こんなことばかりが目に入って、どこからどう手をつけていいか、わからないかもしれません。組織に属していれば、上司からの指示がいったいどこへ向かっているのか、わからないかもしれません。

自分が顧客に成り代わってみることです。
自分がお客だったら、いったいどんな扱われ方をしたいのか。
自分はどんなチラシを見て、どんなチラシを捨てるのか。
かっこいいと思うホームページはどれなのか。
どんなソーシャルメディアを使い、誰をフォローしているのか。
そもそも自分はどのように情報を手に入れているのか。
自分が何かを買うときに何を見てその判断をしているのか。

以下は僕の場合ですが...
僕は飛行機に乗る際は、一つの航空会社を中心に乗ります。マイレージの吸引力はすごいと感じます。出張の多い僕は「いつもご利用ありがとうございます」などと、客室乗務員の方に挨拶されて上機嫌です。
でも、反対にコンビニエンスストアで「ポイントカードをお持ちですか?」と声をかけられるのは、とても苦手です。

「何が違うんだろう」という疑問への答えは、僕が「自分の購買履歴、これを管理されたいかどうか」にあります。飛行機は何回乗っても飛行機です。同時に、飛行機で移動することは少年時代からの憧れでもあります。そんな商品をたくさん使うことはなんとなく誇らしい気持ちになるし、そんな相手から「いつもありがとうございます」なんて言われれば悪い気はしないです。一方、コンビニエンスストアではとにかくいろいろなモノを買います。それらすべてをポイントカードなるもので把握されたら...「なんか恥ずかしい」というのが僕の感覚です。ティファニーやマツモトキヨシの関係と同じです。でも、どれに対しても自分は顧客なのです。

スポーツ産業は、

一般消費財型の産業でしょうか。
刺激を求める嗜好品でしょうか。

ドームの商材は? テーピングはスポーツカテゴリーでは消費財です。DNSのような機能食材はどう捉えるべきなのか。アンダーアーマーのアンダーシャツは? 高機能のフットウェアは?

などなど、「顧客」を定義するには、いろいろな切り口から大きく要素を網羅して、自分自身が「いろいろな自分」になってみて、考えることがとても重要です。自分は毎日、何かしらの基準に基づいて、買うか買わないか、そんな意思決定をしているはずです。

ドラッカーの思考に秘められた
本質的な価値


2016年までに280万部を売り上げ、大ベストセラーとなった

『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』

これは、「高校野球」という一見シンプルで純粋な活動を、ドラッカーの視点から因数分解し、成果を上げていく過程をわかりやすく紐解きます。社会現象にもなったこの本は、ドラッカーの思考は誰にも共感できる本質的な価値が秘められていることを証明していると思います。

この本の中で、チーム作りに悩む一人の女子高生マネージャーが「マネージャーのための本」と勘違いして、ドラッカーの書物を手にしてしまいます。そしてページを開いていていくうちに、ドラッカーの提言に徐々に共感をしていきます。そして彼女はドラッカーに言われるまま、

「うちの野球部の顧客は、いったい誰なんだろう」

と、考えてみました。熟慮の結果、「親、学校、先生、地域、野球ファン」など、「高校野球を見てくれるすべての人々」が顧客であり、この人々がいなければ高校野球は成り立たないことに気づきます。チームに蔓延していた「俺は俺」という独りよがりの考え方では大好きな野球すらできなくなる、ということが論理的に理解できるようになります。そして、ドラッカーの問う「顧客は何を買いたいと思っているのか」という目的を考えます。マネージャーは同じように思考を巡らせ「顧客が高校野球に求めているものは"感動"」という答えにたどり着きます。「顧客」は「高校野球を見てくれるすべての人々」、そしてその顧客が求めている商品は「感動」、すなわち高校の野球部は「高校野球を見てくれるすべての人々に感動を与えるための組織」と定義します。この定義づけに成功したマネージャはチームに熱心にその説明を始めます。すると、それまでバラバラだったコーチや選手やスタッフが 「自分はなぜ野球をやっているのか」や「なぜ野球をすることができているのか」を考え始め、マネージャーの言うことを理解し、まとまりが生まれ、強いチームへと成長を遂げていきます...。

目の前にある何気ない営みも、実際に「成果を出そう」と真剣に考えれば「複雑さ」を包含していることに気づくはずです。そもそも「人は人、俺は俺」というように、人の個性はバラバラで、それに基づいた思考があるのですから当然です。でも、その複雑さは「顧客は誰か?」や「本当の成果とは?」を定義することで、組織の目的、あるいは組織に参加する目的がシンプリファイされ、組織は正しい一つの方向にまとまり始めます。反対に、それが定義されていない組織や活動は、いったんその歯車が狂うと軌道修正する軸がなく、迷走を続けてしまうと思います。

顧客を軸にした組織を再定義


実社会を見つめ直してみると、社会から理解を得られない迷走が散見されます。最近では日本相撲協会の問題、レスリングのパワハラ問題、そして日大アメフト部の悪質タックル問題などがあります。他にも森友・加計学園問題なども、どれを見ても、もう食傷気味、辟易としてしまいますが、ドラッカー的な分析を少しだけ書かせてください。これら組織の一番の課題は、こうした「顧客は誰か?」「顧客は何を求めているのか?」という定義(理解)ができてないことがすべてだと思うからです。

日本相撲協会で言えば、相撲は「国民の娯楽のための興行か」「相撲道を追求するリアルファイトのスポーツか」という「顧客と目的」の定義が協会内でバラバラだからだと思えます。もともとは「国民の娯楽」目的で相撲は商業化してきた歴史があります。その流れに従って「場所数」も増え、場所のないときは巡業で全国行脚です。おまけに公益財団法人ですから、力士たちのこうした活動は「公益性」が求められます。トレーニングも進化し、身体が大きくなっている昨今、稽古も基本「ガチ」ですから、現代力士の身体的負担は相当なものです。そんな環境で、年6場所もあり、15日間の真剣勝負が可能かどうか... 娯楽のための興行か、リアルファイトか、今の日本相撲協会の設定している競技の建て付けでは自ずと答えが出ているように思えますが、現実はどっちつかずです。
日本レスリング協会の現在の顧客は、もしかしたら補助金をくれる「政府」なのかもしれません。レスリングの競技人口は数千人とも言われていて、ここに課題があることは明確です。この競技人口を増やすこと、興味を持ってもらえるファンや競技者の候補という「顧客」を、どうやったら増やせるのかに、その目的を収斂させるべきだと思います。金メダルを獲得することで補助金が増えても、競技人口は一向に増えていません。従って、金メダルがこの協会の目的にはなり得ないのは明確だと思います。金メダルがもたらす補助金に価値を見出している現状では、組織の力学は外よりも、内へ内へと向かってしまうでしょう。外、つまり競技者の候補や一般のファンという「顧客」から見て、魅力的な競技、魅力的な組織に抜本改革しなければ、ただでさえ少ない競技人口がさらに減少していく、という本当の危機を迎えてしまうかもしれません。

日大アメフト部の悪質タックル問題は、よりわかりやすい国民のモヤモヤを生んでいます。大学の顧客は「学生」であり、目的は「学生をよりよく育てて社会に輩出すること」に他なりません。つまり「大学の顧客は誰か?」というのが一般にわかりやすく理解されていることが、この問題をより「わかりやすく」しているように思います。その上で、一番大事な顧客であるべき「学生」を守らず、「組織力」や「大人たち」を守ろうとしている姿に対する強烈な違和感が、大きな社会問題にまで発展してしまった原因だと思います。

森友・加計学園の問題も、もう語るに足らないと思います。政府や官僚の「顧客」は、納税者である「国民」です。国民からお給料をもらっている政治家や官僚が「官邸」や「体制」、あるいは「総理の家族」や「総理のお友達」を見て仕事をしていること。ここに現与党が本気で向き合わない限り、政治は正常化しないはずです。いったい何年間、この何も生み出さない非生産的な動き、「顧客のとんだ勘違い活動」を続けるのでしょうか...

顧客を見出し、顧客の求めるモノやサービスを探り出し、長期的な成果を目指す。
一般論や感情論、持論を排除し、客観的に顧客を「軸」にした組織に再定義し、長期的に成果を生み出す「仕組み」というガバナンスを導入することです。

固定観念を捨てて
「真の顧客探し」を


われわれ、スポーツ業界の顧客はいったい誰でしょうか。

僕はスポーツを愛する人、スポーツをしたい人、すべての子どもたち... もしかしたら全人類かもしれません。
なぜなら僕ら人間は、「動物的な本能」を持ち、「身体を動かす」ように設計されているからです。

足の速い人に憧れる。
身体の大きな人に威圧される。
音楽がかかれば踊りたくなる。
道端に落ちている石ころを蹴飛ばす。

皆さんのお店を「わかりやすくて人が入りやすい」お店にするのか、「敷居を上げて、限定的なサービス」を与えるお店にするのか。
皆さんのチームは「誰に支えられているのか」。そして「その人はチームに何を求めているのか」。

レスリングにしろ、タックル問題にせよ、森友・加計にせよ...外から見て「顧客を見誤ってるじゃん」と言うのはとても簡単です。
彼らの判断を誤らせているのは、歴史と伝統という曖昧な言葉に代表される過去からの習慣、エゴや自尊心などが積み重なった自分の思い込み、などであると考えると、自分のお店や自分のチーム、あるいは自分自身にとっての「真の顧客探し」はそこそこ大変だということに気づくはずです。

すべての固定観念を捨てて、自分を見つめ直してみること。

誕生日プレゼントに買ってもらったグローブを、毎日手にはめて布団に入っていたこと。
スニーカーを買ってもらい、うれしくて帰り道の途中で履き替え、それでもなお収まらず、こっそりと家にそのまま上がったこと。
厳しい練習と上下関係の高校の部活に入部を決意した日の、不安と気合いが入り混じった気持ち。
49歳を迎える今も、「若者に負けてなるものか!」と日々トレーニングに向かう気持ち。

そんな、自分の体験によるワクワク感の記憶、そしてその時々の前向きな感情が自分に幸福をもたらし、この幸福感を一人でも多くの人に伝えたいから頑張っているのだと、自分を振り返ることであらためて感じることができます。そこには歴史や伝統もなく、「俺は俺」というエゴもなく、純粋無垢な自分がいることに気づかされます。

無垢な自分になって、自分の中の「顧客」を客観的に見つけること。
無垢な自分になって、自分が「どうなりたいか」を考えること。

ワクワクしたい、頑張りたい、挑戦したい、そんな「顧客」を「応援」し「励ます」ことが僕らの仕事、すなわち「スポーツを仕事にすること」なのだと僕は思っています。

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※本コラムは、「Dome Journal vol.43」に掲載されたものです。
https://www.domecorp.com/journal/

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