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社長コラム:PRESIDENT’S COLUMN

vol.054変わるべきモノ、変わらぬべきモノ

「三沢さんはどんな人のことをバカと言うのですか?」

ドームが特別協賛をしている「ジャパンコーチズアワード」にて最優秀コーチ賞を受賞した、帝京大学ラグビー部・岩出雅之監督が、自称「真のトップエリート」ドームCFO・三沢英生に投げかけた質問である。

岩出監督と言えば大学ラグビーにおいて前人未到の七連覇中の方、いわば「猛者中の猛者」である。幾多の修羅場を乗り越えてきたこの男から発せられる質問の意図は何だろう... そして三沢は「あ、東大の中のトップ以外はみんなバカです」的にいつもの感じの答えをしてしまわないだろうか... 僕の頭は一瞬ヒヤッと凍りついた。ただ、そんな心配も杞憂そのもの、真のトップエリート・三沢は、多少の動揺を見せながらも、

「無知の知がない人、分かってもないのに分かったふりをする人。謙虚に学ぶ姿勢のない人はバカです」

そう回答した。「ほう、なかなかやるじゃん」とは僕の評価、そして岩出監督にとっても、そこそこのレベルの回答であったことは満足気な表情で見て取れた。 


... 

無知の知がない人をバカと言うなら、今の日本は「バカ」だらけではあるまいか。 

知らないことを知ったふりをする。知らないくせに重大な判断をする。突っ込まれたくないから偉そうな雰囲気を出して威圧する。とてつもなく狭い視野の中で各論の押し引きに終始する。本来脆いであろう平和が永遠に続く、もしくはタダで手に入ると思っている。

現在の"一定の"安定した社会を作ってくれたのは、戦前の日本で育った世代の方々だ。吉田茂、井深大、田中角栄、力道山、美空ひばり... 彼らはグローバリゼーション真っ只中の幼少期を過ごしたに違いない。
「富国強兵」や「脱亜入欧」という明確な「世界基準のビジョン」の下、国家も個人も「変化」と「進化」が求められた。その延長線上にある新しい営みや文化が育まれる中、世界は弱肉強食の帝国主義に突入していった。日本を含む世界中で戦争があり、日々国境が変わるという時代であった。

こうした時代を生き延びた先人達が現代日本の基礎を作った。過去の過ちを謙虚に反省し、新しい国としての新しい仕組み、そして個人を尊重する新しい価値観を作り上げ、見事なまでの戦後復興を成し遂げた。現在の安定感ある生活はこうした「グローバリゼーション最前線世代」が築き上げたものだ。必死に欧米に出向き、再び世界に認められる国になるため、世界中の最先端を学び続けたことだろう。「エジソンを師」と仰いだ松下幸之助や「良品に国境なし!」と明言していた本田宗一郎の自伝を見てもそのことは明らかだ。

そう、逞しいまでの成長を遂げた戦後の日本は、リーダー層に総じて「謙虚に学ぶ姿勢」があった、つまり「無知の知」に溢れていた時代と言えるだろう。 

... 

今の日本はどうだろう。日本の現状を客観的に知ることから「無知の知」診断をしてみよう。

二〇〇九年まで、日本のGDPは世界第二位だった。現在は第三位である。 
ここまでは何となく知っているだろう。 
では、二〇一五年の日本と第二位の中国とのGDPの差を知っているだろうか。 

中国約十一兆ドル 
日本約四兆ドル 

ついこないだ抜かれたと思ったら、すでに三倍近い規模になっていることはご存知だろうか。

「人口が多いから」 

などと嘯(うそぶ)く人は「無知の無知」の人々のみが暮らす「新しい国家」をどっかに作って生きてくれ。中国は昔からずーっと人口が多いのである。同時に、日本より人口の多い国はいくらでもある... つまり、 

中国は「変わった」のである。 

中国人にとって、多くの日本人が大事にしている日本国憲法(大多数は前文すら知らないだろうけど...)よりも圧倒的に存在感の大きい「毛沢東の教え」を、ある意味否定して変化を選んだのだ。その変化の具体的な例を挙げる。中国におけるスポーツ産業、一昨年共産党から公式に発表があった「スポーツ市場規模を二〇二五年までに九十兆円産業にする」という宣言以来、具体的な政策のもとスポーツ産業が破竹の急成長を遂げている。先端を行くスポーツ関連企業には十五%の減税を行ったり、過去のエリート体育から脱却し学校でスポーツが行われるようになったり、多くのマラソン大会が開催されたり、などなど具体策を伴って急成長しているのだ。...UA本社の中国責任者に「エリック」というできる男がいる。このエリック、中国のこうした状況に「ウハウハ」である。今年の中国でのUAの売上はX〇〇億円を予想しており、それこそUAグローバルにおいてずっと世界第二位の売上規模だったドーム/日本はGDPと同様、早々に中国に追い越されそうな勢いだ。(そうならないよう、皆様もよろしくご共闘ください!)

少しさかのぼって二〇〇〇年 
中国のGDPは日本のわずか四分の一であった。
当時第三位だったドイツのGDPは日本の半分以下であったが、今は四分の三くらいの規模にまで迫ってきている。 

この十五年の相対的な力関係の変化をどうみるべきか。
知ること、学ぶことを怠ってはいないだろうか。謙虚さを失ってはいないだろうか。 

懇意にさせていただいている某テレビ局の何某社長いわく「ここ数年、ドキュメンタリーみたいなのは全然だめ、日本を褒め称えるような番組じゃないと視聴率が取れない...」と。
無知や盲目はこのように拍車がかかっていくのか... と、背筋が少し寒くなった。 

... 

ちょっとした自慢ではあるが、僕は前職時代「悪魔の記憶力」との異名を誇った。入社して三年間は一番下っ端で、議事録や報告書の記述はほとんどが僕の仕事であったのだが、それら内容のほぼ全てが頭に入っていたからだ。内容も確かに大事ではあるが、当時はその「置き場所」もまた同じくらい重要だった。その頃の記憶媒体は「紙」、その一枚の紙をいずれかのルールに従ってファイルする。棚に勢ぞろいするファイル群、のちに参照しようとしてもその目的の一枚の書類にたどり着くのはかなりの時間を要する。僕はファイルの置き場もほぼ完璧に覚えていて、上司には大変重宝されたものだ。反面、ファイルした書類にたどり着く通常の手間を考えると、書類管理そのものの効果に大いなる疑問を持ったのも事実である。「情報はアクセスできなければ単なるゴミだ」 ...そんなことを日々感じていた。 

そういえば、学校の勉強もそのほとんどが「記憶力」をつけるものであった。確かに昔は記憶力はそのままイコール頭の良さ、と言ってもいいほど重要な能力であった。脳みそがデータベースなわけだから、記憶媒体の容量は多ければ多いほどいいに決まってる。

それが今はどうだろう。 

「スマホとクラウド」 

これにより、安田ごときのポンコツ記憶力が威力を発揮する時代は完全に終わった。長きにわたり「紙至上時代」を築き上げたグーテンベルクの印刷機以来の大革命であろう、スマホとクラウド。まさしくこれこそが「イノベーション」であり、現在の我々は時代の変革期の真っ只中にいる、という認識を持たねばならない。

...

閑話... 「イノベーション」を単なる技術革新と間違った理解をしてる人が意外と多い。特に永田町界隈から「日本初のイノベーションを世界に発信したい」的なコメントが出てくることが恥ずかしくてたまらない。イノベーションとはある程度の期間を伴う生活様式そのものの変革を意味している。つまり「発信」できるようなモノではない。イノベーションとは社会におけるあらゆる組織の盛衰に直接的な影響を及ぼす現象だ。 

例えば、欧米では「Uberization」ウーバライゼーションという最近生まれた言葉がある。これは「Uber」ウーバーというハイヤーから自家用車まであらゆる移動機器(今のところほぼ自動車)をスマホでマッチングさせるという欧米においては既に標準となってしまった「交通サービス」により生まれた造語である。ウーバーを簡単に説明すると「乗りたい人と乗せたい人をスマホで結びつける」というサービスだ。この企業の理念がユニークで「水道のように移動手段がいつでもどこにでも身近にある」状況を作る、というのだ。

それはそれとして、このサービス、スマホで全てのコミュニケーションが完結する、行き先検索も決済も経路確認も全てスマホででき、チップなどの現金のやり取りなし、と便利この上ないサービスで、特に海外など知らない土地ではもはや欠かせない、まさに水道のようなインフラだ。ただ、そんな便利なサービスがまだ日本では部分的にしか開放されていないのだ。先日、シリコンバレーでウーバーの社長と面会したが「世界の大都市でUberが機能していないのは東京だけだ」と愚痴られ、なぜか恥ずかしく、申し訳ない気持ちになった。

日本で解禁できないのはタクシー業界の圧力が原因らしい。こんな時に「ウーバライゼーション(ウーバー症候群)」という言葉が出現する。ウーバライゼーションとは「既存概念を超えた全く異なるビジネスモデルを駆使して、機敏に活動する新規参入者からの脅威に晒されている既存企業とその状態」を指す。すなわち、ウーバライゼーションとは、多くの人を便利にする一方で既存の古いモデルの存在を消滅させる、そんな威力ある状態や現象を示す言葉なのである。また、変革できない古いタイプの企業や、アンテナの低い鈍感な人々を「その内、Uberize (ウーバライズ)される企業」「あいつはそろそろウーバライズされるだろう」などと皮肉な動詞としても使われる。そのくらい時代の変革期というのは無慈悲に物事が進んでいく。タクシー業界はまさにウーバーにより脅威に晒され、幾つかの企業は消滅せざるを得ないだろう。ただウーバーの社長によると、企業努力を続けるタクシー企業とは共存してる実績もあり、そんな意味では自ら変革しようとしないタクシー企業だけがウーバライズされることになるらしい。 

「イノベーション」という言葉の意味を完全に間違って使っているリーダーがいる日本と、「ウーバライゼーション」という言葉が普通に行き交う欧米社会... この差をなんとか埋めようと思い、「無知の無知」への警鐘を鳴らしたく、一生懸命ドームジャーナルのコラムを執筆中です... 閑話休題 

...

今、新しい人々の出会いの中で、電話番号を聞くというプロセスを踏む人はいるだろうか。その電話番号を記憶する人が何人いるだろうか。ほぼいないはずだ。これは、社会生活における「記憶力の価値」がウーバライズされている状態と言える。かつて、一日に千里を走ったという赤兎馬も、遠くまで見通せる千里眼も、その時代時代では重宝される、時には天下すらとれた能力であっただろう。でも、内燃機関や望遠鏡などの開発でこうした能力は相対的に重要ではなくなった。僕の特技であった記憶力も今後は「記憶力コンテスト」などでのみ、その能力を如何なく発揮するという部類の能力になる。 

スマホとクラウドがもたらしているイノベーションの時代は「情報ヒエラルキーが崩壊した時代」であり「組み合わせの時代」でもある。つまり「分散化された情報を組み合わせて新しい発想・価値を作る」という時代になっている、ということ。ウーバーも、結局は「相乗り」や「ヒッチハイク」などもともとあった概念について、スマホによって完璧なマッチングを可能にしてしまっただけのことだ。これは「組み合わせ」から出た発想である。 

いつの時代も、より多くの情報を持つものが権力を持つ。
「村の長老」が長生きするだけで尊敬されたのは、まさに長老しか知らない情報がたくさんあったからに他ならない。「長老」の意見を聞くことでその村は有事を上手に切り抜けられた、という事実は少なくないだろう。情報と記憶力の全盛期である。
官僚機構も同様である。カスケード状に末広がった末端からの情報が研ぎ澄まされながら登っていき、一番上に収斂される仕組みである。隣同士の情報は分断され、上から下に情報が逆流することもない。「君はそんなことも知らないのか」や「君が知るにはまだ早すぎる」と、情報力が権力構造そのものであることが理解できるはずだ。 

それが今はどうだろう。ありとあらゆる情報がスマホとクラウドにより開放され、情報ヒエラルキーが完全に崩壊した時代に突入した。すなわち「君はそんなことも知らないのか」と言われたら「いや、お言葉ですが本当は...」という反論がいくらでもできてしまう、机の下でちょちょっと調べて「あれ、こいつ偉そうに知ったかぶりしているけど事実と違うじゃん」などと、いつでもどこでもその真偽を瞬時に確認できるという時代なのである。

そんな時代の大変革が起こっていることを知らず、そもそも村の長老の如く経験知のみであれこれ判断を下している「老害」が日本には多い。限りなく間違った判断をしている可能性が高く、同時に「裸の王様」化して組織のモチベーションが下落、古い権威構造の崩壊が予見されるのも事実である。ただし、座して順番を待っても同じ権力基盤を持つ者が次に座り、大きな変化は生まれないだろう。変化は自らの努力で付けるモノ、ここもまた大きなポイントなのである。 

... 

再び、中国。

「バブルだ」「そのうち...」だの、色々と声は聞こえるが、国自体が圧倒的な速度で「変わっている」ことは事実である。 

「組み合わせの時代」とは技術や製造の世界でも同様で、今や基礎技術の蓄積なく「最良に近い」スマホや自動車が作れてしまう時代である。「最良に近い」商品で十分な時代であることも重要だ。かつては先進国になるためにはあらゆる基礎技術の蓄積が必要であり、多大の時間と努力を要した。「組み合わせ」の時代は、蓄積という順番を飛び越えて、「シャオミ」のスマホのように部品を組み合わせるだけで、一気に「最良に近いもの」が市場の支配者となることが可能となる(市場を支配したものが「最良」なのだが)。こうした企業の盛衰を含み、欧米、アジアなど諸外国を回ってみると成熟のプロセスなど最早なく「同時的に浮上してくる社会」の勢いをヒシヒシと感じる。

テーピングテープや衣類を生産するために初めて中国を訪れたのが二〇〇〇年だ。その頃は「生産技術」や「品質管理」など、素人の僕らが必死になって指導したものだ。「品質の意味を理解するには相当な時間を要するだろうなあ」や「日本のレベルになるのは不可能だろうな」という実感、驕りが正直あった。そしてその頃の工員さんの賃金も知っていただけに、まさかこの地で一枚五千円のTシャツが飛ぶように売れる日が来るなど予想だにしなかった。

もちろん今でも中国は突っ込みどころでいっぱいである。政治・経済という社会基盤の不安も大きい。尖閣含め外交問題もパクリ問題も一向に治まる気配がない。その一方で、中国のほとんどの大都市ではウーバーが使える。日本では未だにグズグズやっているクラブの深夜営業、上海や北京の街は連日朝まで大盛況である。中国の若者たちは朝までクラブで騒いでウーバーで帰宅するのだ。国家の成熟に正しい順番などないことを実感する。

二〇二〇年に溢れるであろう観光客が最高の体験ができるよう、変革のうねりが日本にも起こることを願ってやまない。 

... 
日本の学校において、すでにウーバライズされた能力である「記憶力」型の教育をしていることに危機感を覚えている。 

またまた私事であるが、僕の娘はインターナショナルスクールに通っている。彼女は小学生の頃からパソコンを使った勉強が中心となり、先生とのコミュニケーションや宿題、通信簿までクラウド上でやり取りがされる。研究内容の発表はマックとプロジェクターを使ったプレゼンテーション形式、娘によると「パワーポイントなんて誰も使ってないよ。今プレゼンはPreziがクールだよ」と。中身を見るとデジカメで撮影された写真や動画を加工したり、アニメーションを使ってエンターテイニングにしたり... と、知らないソフトや技術ばかりで僕が勉強になる内容ばかりだ。「なにそれなにそれ⁉︎」と新しい情報を得るワクワク感で気分が高揚する。

一方、息子は日本の普通の学校に通っている。僕らの時代と同様「連絡帳」なるもので父兄と先生のコミュニケーションをとる。やりとりの全てがプリントなど紙媒体である。携帯もPCも禁止だから当たり前だ。彼の勉強をちょっと見てみると、漢字の書き取りや穴埋め問題、同じ種類の計算を何度もやる、という記憶に掘り込む「ドリル」式ばかりで、僕が三十年以上前にやったものとほぼ同じだ。だから「上から目線で」教えることができる。同時に「果たしてこれでいいのだろうか」と気分が暗くなる。

社会とつながっているのは、組み合わせの発想力が生まれるのは、いったいどっちだろうか。そもそも教育とはなんだろうか。 

スマホとクラウド、組み合わせの時代。 
漢字の書き取りや足し算引き算の繰り返しになんの意味があるだろう。意味があるかもしれないが、ないかもしれないのもまた事実であろう。これからの時代、教育とはそもそもどうあるべきか、未来に向けてどうするべきか、大いなる議論が必要じゃないだろうか。今日も明日も学校で学ぶたくさんの子供たちのため、変革に向けた議論は一刻の猶予も許されないのではないだろうか。
教育の中身こそ日進月歩、いつでも変化に富むべきモノではあるまいか。

...

先日、『杉原千畝』という映画をみた。 

大いなるリスクを背負い、個人の判断で六千人ものユダヤ人たちにビザを発行し続けた勇敢な外交官の半生を描いた作品だ。映画の中で、鍵となる教えがある。 

「人のお世話にならぬよう 人のお世話をするよう そして報いを求めぬよう」  

これは彼が青春時代を過ごしたハルピン学院の校訓である。外交官という仕事を通して、日本や世界に貢献する人間を目指していた杉原は、戦争という不確実な厳しい局面に際し、物事の判断の中枢にこの校訓を据え、勇気と信念をもって数多くの人命を助けた。 

その映画に涙してたころ、ドーム内最大派閥である早稲田大学の社内同窓会があったらしい。そこで話題になった「大隈重信の五訓」というものが社内SNSによって発信された。 

「一、怒るな 二、愚痴をこぼすな 三、過去を頼るな 四、望を将来に置け 五、人のために善を為せ」

そしてほぼ同じタイミングで、パートナーシップを結んだ関東学院大学との記者会見があった。同校の校訓はこうだ。 

「人になれ 奉仕せよ」 

これら全ての校訓がメッセージ性に富み、シンプルで力強く、心に深く入り込んでくる。日本の学校は、こうした素晴らしい校訓ばかりである。時にはその校訓に触れただけでも、目頭が熱くなってしまうようなものすらある。それらすべてがオリジナリティがあって改めて日本語の多様性と、日本の教育の奥深さを実感する。

では、なぜこれらの「教え」は、ここまでユニバーサルでオールマイティ、一様に心に突き刺さるのか。

色々と考えてみた結果、 

「弱い自分を勇気づける言葉」 

であるからだ、という僕なりの結論に行き着いた。
反対に言えば、そもそも教育とは 

「弱さを克服する」 

ということではあるまいか。

僕ごときが「教育とは」など語るに足らぬのは承知の上、「無知の知」を持ち続けようと修行中の身であるがゆえ、こうした教えに素直に勇気づけられるのだとも思う。そしてそれはいつでも「自分の弱さ」と対峙してるからかもしれない。
知らぬこと、できぬことを恥じぬこと、弱さを認めること。

...

再び岩出監督の質問

「どんな人がバカなのだろう...」 

無知の知がなく、謙虚になれないのは何故だろうか。
「イノベーション」という言葉の理解が間違ってても、誰も指摘してくれないのはなぜなのだろうか。

今の日本において、学校の教えを信念にして、社会的な活動につなげている人がいったい何人いるだろう。

そもそも校訓を覚えている人が何人いるだろう。

戦前世代の先人達のように、自国の弱さ、自分の弱さと向き合っている人は何人いるだろうか。

杉原千畝のようにギリギリの判断に日々直面している人はどれだけいるだろうか。

思考を止めてしまいたいような苦しい時、裸の王様から抜け出すべく変化しようとする時、背中を押してくれるのがこうした「教え」ではないだろうか。
うん、そう考えると机の上で教わることは、教育のほんの一部でしかないようだ。

移り変わる時代の中、無知を認めることは怖いこと。

謙虚に学ぶには自らの無知を知ること。
学び続けるには自らの弱さを知ること。

社会は時代とともに変化する。

変わるべきものと変わらぬべきもの。
変わる勇気をくれる変わらぬべきもの。

日々必死に闘い、敗北し、弱さと向き合い、変わらぬ教えに勇気をもらい、謙虚に素直に学び続けること。

どうか、自分がバカではありませんように。


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※本コラムは、「Dome Journal vol.35」に掲載されたものです。
http://www.domecorp.com/journal/

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