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社長コラム:PRESIDENT’S COLUMN

vol.050「水は上から下にしか流れない」

原理原則を見極める、そもそも論のすゝめ

縄文時代は、なんとも平和な時代だったらしい。
争い事はなく、家族と集落はそれぞれの縄張りの中で呑気な日々を過ごしていた。ヒイジイちゃんは生前「みんなで仲良くさ、木の実をとったり海で貝を拾って食ったもんだよ。」といった話をよく僕にしてくれた。今から約2万年くらい前の話だ。「でもさ、雨が続いたり、寒い日が続くと、食い物を探すのが大変でよぉ。年寄や子供とか、身体の弱いやつから死んでっちゃうんだよな。あれは辛かった。」と悲しげにそう続けた。

「ヒイジイさんが苦労した分、俺らは安定した生活が送れたよ。」とジイちゃんは話してくれた。
そう、ジイちゃんは弥生時代、つまり今から3千年前の時代を生きた人だ。「稲作農耕っていってさ、木の実とってた時代から、自分たちで食いたいもんを作れるようになったんだ。食料の備蓄も出来て、子供から老人まで、食うには困らなくなったねぇ。」と、眉を細めて懐かしそうに語ってくれた。「でもな、シュウボウ、みんなで必死に貯めた食料をさ、隣の集落から山賊みてぇーな奴らが略奪に来てさ... それを守ろうとして、村の若いのがたくさん死んでったよ。俺も勿論、戦ったさ。運よく生き残ることができたけど。でも、ヒイジイさんの時代とどっちが良かったんだろうなぁ...」と、遠くを見つめながら呟くジイちゃんの瞳の裏側に、重い歴史を感じたものだ...

・・・

自然の営みの中にある巨大な悲しみ。

その悲しみがエネルギーとなり、数万年という歳月を経て人は文明を手に入れた。
悲しみをなくそうとして頑張った結果、今度は文明が更なる悲しみを生んだ。

複雑怪奇に絡み合う現代社会の勢力争い。その根っこは安らかな暮らしを求めた文明の副産物、数千年前までその起源はさかのぼる。その後、現在まで数千年以上も争いを続けてきた人類が「平和」を口にするのは簡単だが、実行するのは本当に難しい。

現代社会における全ての争いは、文明が生んだ「富の分配」に端を発する。
宗教間の争いも、領土争いも、全ては「富」がなくては始まらず、それぞれの正義をかざしては「富」を奪い合う。

歴史を深く読み、原理原則を見極めれば、資本主義の否定は文明の否定であろう。資本主義を否定し、争いを避けて生きるには、縄文時代に戻るしか道はない。ただ、そこには、飢えや災害、猛獣など大自然との戦いがある。朝起きたら生まれたばかりの可愛い子供がクマに食われてしまっても、病院に行けず苦しみのままに命を失うことも、大自然の摂理として受け入れる覚悟をしなくてはならないだろう。安全・安定を求めて行き着いた先に経済がある以上、都合よく文明を取り込むことなど出来ない。

そもそもは意図せず進化を続けてきた人類、これからも文明を進めるしか道はないだろう。

数千年戦い続けたヨーロッパが一つになり、ひと昔前には真っ向から戦ったアメリカが最大の同盟国になった。
小さな話で言えば、30年前と現在の交通マナーの違いを見ても、文明の推進は平和への道と感じられる。
・・・

数千年にわたり熟成されてきた資本主義経済の成立は「人口増加」が必要条件である。

弥生時代にさかのぼれば「畑を耕す」というリスクを背負うこと、労働という投資がその起点となる。木の実が恒常的にたわわに実っていれば、何もせずに豊かな暮らしが送れるだろう。ただし、畑を耕すとしたら、収穫までの間「労働」という投資をせねばならない。しかも労働者は、働けない人の分や、今後の村の発展を想定して必要量以上の収穫をあげる必要がある。これが資本主義下の「再配分」のロジックであり、現代社会の大きな秩序となっている。

そんな意味では「耕す」というリスクを背負えるか? という投資判断は「収穫増」という「成長性」「リターン」があるかどうか、にかかってくる。弥生時代で言えば、木の実を採るよりも圧倒的な収穫増が見込める、稲作農耕が根付いたのはごく自然の流れと言えるだろう。

では、この弥生時代に「少子高齢化問題」が勃発したらどうなるだろうか

労働者が減る → 収穫量の減少 → 非労働者への食糧配分比率が上昇 → 労働者の負担増、疲弊・流出 → 新たな投資・対策が打てない → 止められない人口の自然減 → 村の消滅

となる。いわゆる「ジリ貧」という状態だ。

そしてこれ、フィクションではなく、そのまま今の日本である。人口が減っている日本はもはや「ジリ貧」状態を超えた「ドロ船」と言っても過言ではない。このままこの船に乗っていたら、日本人は皆で沈んでいく運命をたどる。変な煽りをしたいのではなく、資本主義の原理原則論だ。反対に言えば、人口が増え続けてきたから、弥生時代から日本という国が繁栄し続けてきた。そもそも、人口が減っていく国は普通に考えて自然消滅する。

経済効率を上げることで凌げるだろう... というのも妄想で、経済効率を上げる、ということは技術革新など何らかの努力、つまりは「投資」が必要で、その投資判断は前記の通り、その「成長性」がカギとなる。この投資という努力をする人々、投資家や労働者を含む実業家は、その経済効率を高めることがその投資や労働の目的となるが、少子高齢化で人口減、という将来性のない地域に投資する、という事は合理性がないため、しない。やる気のある労働者は仕事のある場所を求めて移動する。

成長の可能性、リターンの見込めるところにはドンドンと人や金が集まり、成長を続けるのが資本主義の原則だ。日本の有力者が多く流出しているシンガポールを始め、成長大国のアメリカなどに世界中からお金や優秀な人材が、どんどん集まっているのもごくごく自然と言える。

即ち、資本主義経済下では、一旦その生産性が落ちると、その起点となる投資がなくなり、衰退の一途を一直線にたどることとなる。原理原則を見極めることのない努力は、全てが徒労となる。魚のいない海に網を投げても、努力も願いも空しい結果になるのは明らかだ。

残念なことに島国の「日本」に、その危機感がまるでない。世界の現実を知らず、知ろうとせず、呑気にSNSなどで本質にかすりもしない各論を展開しては傷を舐めあい、溜飲を下げている。

...ので、こんなことを書いてみた。

世界と対峙していると「相手はバーディーを連発している中、自分はボギーが止まらない...」 そんな急加速な差の開きを毎年毎年感じる。前半はイーブン、後半ちょっと油断してる隙に、上がって見たら18打も負けていた... 経済合理性とはそんなちょっとしたマイナスとプラスの関係で、一旦隙を見せれば、どんどん置いていかれるのが資本主義の恐ろしさだ。

30年前の日本は反対にバーディーを連発していた状態、だから外国人が来て、国内外から投資が入り、更なる生産性を高め、成長軌道をひた走っていた。今の日本は下り坂にも関わらず、いまだにその成長カーブにいるかのような、もしくは「いつか景気がよくなるだろう」というような、漠然とした他力本願思考の中にどっぷりと浸ってしまってる。

・・・

とは言え、日本はまだまだ世界第3位の経済大国、貯金はいくらか残っている。その貯金をいかに効果的に投資に回すのか、というのが処方箋となる。具体的な処方箋のひとつ、これは現在の日本の危機的状況をいみじくも例示しているのが「大学改革」である。

簡単に言うと「留学生を増やす」ということ。これが日本をドロ船から救う本質的活動のひとつであり、個人的には、これを逃したらもう復活はない、と断言出来るほど切実な問題だ。

そもそも「大学」の役割は「いい人材を入れ、よりよくして社会に送り出す」という一言に尽きる。

「少子化」「ゆとり教育」 など内向きな各論が錯綜しているうちに、世界の大学はグローバルな戦いで切磋琢磨を続けている。気がつけば、20年前は世界のトップ争いをしていた東京大学が、現在では世界で30位にも入らなくなってしまった。競争が緩くなっているのだから、レベルが下がるのは自然の摂理と言えるだろう。

では、世界の超一流大学はどうなんだろう。

大学の役割が「いい人材を入れ、よりよくして社会に送り出す」のであるならば、ここに「国籍」という条件を付ける理由はどこにもない。実際、アメリカのMITやイギリスのオックスフォードやケンブリッジという一流大学は30%近い留学生比率を誇る。それに対して、東京大学の留学生比率はなんと「2%」にも満たない。

優秀な人材が、国家や地域を支えるのは弥生時代から変わらぬ自明の理であろうし、ましてや資源のない日本、人材育成以外に国が繁栄する道はない。大学が多文化を受け入れ、多様性を身に付けることが大学=国家にとってどれだけプラスになるかもまた明白であろう。事実、上記した3つの欧米の大学は、毎年激しいトップ争いを繰り広げている。

優秀な学生あればこそ、優秀な大学で学びたい、と思うのはごく自然であり、これからもこうした大学は、世界中からどんどん優秀な人材が集まっていくだろう。人気が高まればお金が集まり、お金が集まれば優秀な教授が雇え、更にレベルが上がる。日本では「聖職」などと言われている教育の現場こそ、実はこの資本主義の論理が色濃く表れる。識字率の高さがそのまま経済力となっている現実を考えれば、教育が資本主義の主導力になっているのは明らかだ。

先日、京都大学アメリカンフットボール部の西村監督と話す機会があった。「京都大学の入学試験は日本語じゃないとダメなんです...」と恥ずかしそうにコメントを絞り出した。ただでさえ難しい日本語、「それを覚えてからじゃないとウチには入れません」と大上段に構えている場合だろうか。京都大学のランキングは50位以下に落ちてしまっている理由が明白じゃないだろうか。

その為に、世界基準、というか世界の常識に合わせて、10月入学と英語による入試を実施しなくてはならない。なぜ、この議論がストップしているのか、合理的な理由がさっぱり見当たらない。

ただ現状はもっと悪い方向に進んでしまっている... 日本を代表する私学の数々が付属校を増やし、少子化対策に余念がない、という実態がある。

これは人材のブロック化と言え、日本衰退の加速度を速めているに他ならない。自らの首を絞めているのと同じである。ブロック経済がもたらした功罪は敢えて書くまでもないだろう。局所的なメリットは、世界全体の不安定と紛争を激化させ、自らも大きな代償を払う結果となった。

「自分のところの経営がうまく行くよう、小学生から囲い込む」

という利己的な対処療法は

「いい人材を入れ、よりよくして社会に送り出す」

という大学の本分から逸脱し、競争も多様性もない画一的で守られた人材しか生み出すことが出来ないだろう。誇りと尊厳を失い、自分だけが助かろうという保身に走れば「蜘蛛の糸」はプツリと切れ、大学自体が存亡の危機に晒される。

自身の大学に、真の誇りを持っているならば、世界の優秀な大学と堂々と勝負に挑むべきじゃないだろうか。

「我が大学は、世界各地から優秀な人材を広く集め、切磋琢磨を通じて世界一の大学を目指します!」

と、リーダーがその本質に立ち返った「大きな夢」を語るべきじゃないだろうか。日本で一流と言われる大学が、世界における超一流を目指し、留学を増やし、多様性を身に付け、競争力を高める。

目先の人口増加と長期的な人材育成... と日本の大学にはまだ可能性が残されている。10月入学と英語入試、この簡単なことが実行出来るかどうか。これからの日本を占う試金石と言えるだろう。

・・・

と、いうように、日本が抱えている問題は深刻ではあるが、まだまだ多少の余力、処方箋があるのも事実である。そんな意味では本当の問題は日本人の多くが、

「ドロ船に乗っている事に気付いていない」
「気付いている人はドロ船の中で、自分だけ助かろうとこっそり救命胴衣を着けている」

という、「井の中の蛙」 状態にあることだろう。救命胴衣を着けたところで、所詮は救命胴衣、いざ大海に放りだされれば、あっという間に海の藻屑となってしまう。とにかく、世界を知り、現状を知る、学ぶことが第一歩であり、自らの未来を自ら切り開く心構えを作ることが不可欠だ。

テレビもインターネットもなく、今とは比較にならないくらいの暗黒の時代に、世界を知り、日本人の進むべき道をダイナミックに説いた男がいた。福沢諭吉だ。

「学問のすゝめ」

にて、真に「学ぶこと」は何たるか、そしてそれがどのような効能があるか、という真理を見事なまでにまとめあげた。その中にこんな一説がある。

「開港の後もいろいろと議論多く、鎖国攘夷などとやかましく言いし者もありしかども、その見るところはなはだ狭く、ことわざに言う"井の底の蛙にて、その議論とるに足らず。

日本とても西洋諸国とても同じ天地の間にありて、同じ日輪に照らされ、同じ月を眺め、海をともにし、空気をともにし、情合い相同じき人民なれば、ここに余るものは彼に渡し、彼に余るものは我に取り、互いに相教え互いに相学び、恥ずることもなく誇ることもなく、互いに便利を達し互いにその幸いを祈り、天理人道に従いて互いの交わりを結び、理のためにはアフリカの黒奴(こくど)にも恐れ入り、道のためにはイギリス・アメリカの軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄てて国の威光を落とさざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり。」

つい数年前まで鎖国してた時代の中で書かれたこの文章は、140年以上の年月を経ても些かの翳りを見せず、むしろ煌びやかな輝きを放つ。

当時主流であった攘夷論を、狭義な各論として「とるに足らず」と一蹴、見たこともない地球の裏側の人々との営みも、到底敵わない力量の差をも、天理人道に照らし合わせることで、その向かうべき方向と持つべき心構えは自ずと見えてくる、そしてそれこそが真の自由と独立である、ということを痛快に説いている。

混迷の現代社会においても尚、この快活な文章に、突き抜けるような清涼感を感じるのは僕だけだろうか。

前号でご紹介させていただいたK常務、現在は社長になられているが、そのK社長よりかつての日本について、そして今後の日本のあるべき姿についてこんなお話を伺った。

「かつてのとある省庁では"そもそも日本はどうあるべきかという"そもそも論を徹底してやっていた。今だにその連中とはそんな話をする仲だ。こうした青臭い議論が出来なくなったら、この国は本当にお終いだ。」

尊敬する人生の大先輩に、こんなことを言われて、なんだか嬉しくて仕方なくなった。

うん、そうか、やっぱりそうだよな。

幾つになっても大事なんだ、青臭い「そもそも論」が。ならば、大いにやろうではないか!

そもそも日本はどうあるべきか!?

そもそも自分たちの暮らしてる社会のルール、資本主義とは何であろう。

そもそもスポーツはどうあるべきか。
そもそも自分の会社は、自分の街は、学校はどうあるべきか。

野球は、サッカーは、バスケットボールは、柔道は、剣道は... そもそもどうあるべきか。

・・・

「見知らぬ国の見知らぬ人の、喜びも悲しみもみんなあなたにつながっています。」

小学生の担任の先生が、卒業式の時に贈ってくれた言葉だ。当時はあまりの「遠さ」に何の実感も湧なかった。今では、福沢諭吉の教えと共に、僕の胸にぐっさりと突き刺さっている。

そもそも地球とは...
人類が連綿と続けてきた営みとは、そもそもいったいなんだろう。

水は上から下にしか流れない。

川岸に転がる石ころを並び変えても、その流れを些かも変えることは出来ない。

そもそも論を通じて、
真理と本質を追求し、
天理人道を見極めること。

さあ、ドームも、お客様と、監督と、選手と、トレーナーと、お取引先様と... みんなで大いにやろうではないか、青臭い「そもそも論」を!!

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