vol.056現場から見えること
「創造的破壊」により学生スポーツの価値を最大化せよ!
9月某日、突然、法政大学アメリカンフットボール部の監督をやることになった。
前任者が不適切な金銭管理を理由に大学から解任された。当初はあくまでも後任者を決めるまでのピンチヒッターとしてバッターボックスに立つつもりだった。世間一般に対して「大学スポーツの改革」を声高に叫んでおきながら、自分の出身母体が最もひどい状態にあることに対する責任感もあった。少し青臭いことを言えば、見て見ぬふりを続けるのも限界だった。ただ、そんなセンチメンタルな感情論は一瞬にして霧散してしまうほど「大学スポーツの抱える問題の大きさ」に茫然とせざるを得なかった。
同時に...。
大人になる直前の学生、義務や責任よりも雄大な自由があり、若さという無限のエネルギーがある。この大学生というキラキラ輝く存在、そして大学スポーツの可能性の大きさもあらためて感じることとなる。僕らの時代よりもよっぽど多様化している現代において、夢や目標に向かい純粋に全力を注ぐ150名の集団が発するエネルギーは、まるで真夏の太陽のようにギラギラとした輝きを放ち、47歳の僕でさえ同じような熱感の中にいると感じさせられるほどの力強さがある。また、大学そのものを多少物理的に解析すると、多くの大学は古い歴史と文化の上に成り立っていて、それが故に巨大な資産を所有している場合が多い。大学は国家を支える人材を作り出す「養成機関」である。この養成機関の威力が高ければ高いほど、社会は成熟度を増し民度は高まっていく。大学同士が競い合うことで、アカデミックに、アスレチックに、マネジメントにその質が高まっていき、大学のみならず国家も成長する循環が生まれる。そう、そんな意味から言うと約20年振りに復帰した大学スポーツの現場では、
「少子化」による暗い未来
よりも
「休眠資産」活用による明るい未来
の輝きの方が、僕には眩しく見えた。
今こそ、未来を支える若者たちの飛躍のため、大人たちが時代に合った最適な環境を整えるときであろう。「学生の自主性」「課外活動」 。そんな言い訳はもう許されない。
キラキラと輝く可能性
今だからこそそう見えるが、就任直後の感想はまるで違うものであった。
「大学スポーツの抱える問題」は外から見るよりもよっぽど巨大で、魑魅魍魎の棲む「伏魔殿」というより...複雑骨折した足首を70年間放ったらかしておいて、レントゲンを撮ってみてさらにびっくり...一体どこからどう手を付けていいのやら...しかも僕、外科医でもないし...そんな状態だった。
毎日毎日、マネージャーから寄せられる細かい質問の数々、部室に顔を出すたびに何かしらの判断を求められる。明確な方向性がなく、闇雲に「日本一」という甘美だけど漠然とした目標に頼らざるを得なかった学生たちが不憫でならなかったし、それら判断を迫られる内容が「一般社会人」として20年以上生きてきた僕の常識では決断はおろか、理解すら困難なことだらけだった。もちろん個別に「それはこうしろ」だとか「それはいいけど、これはだめ」といった指示はいくらでも出せる。でも「なんだこれ、いちいちこんなことに答えて威張ったところで...そんなの僕じゃなくても大丈夫じゃん」という何とも言えない違和感に包まれた。この辺が「放置された複雑骨折感」の発露なのだが、とにかく頭の中がモヤモヤして大変だった。モヤモヤの中身は「本質的な答えはどこにあるのか」「これって複雑骨折してるよね、しかも放置されてて。どうしようかな...」という悩みである。うんそうだ、仕方ない。やっぱり因数分解だ。「勝ち負け」と「人材育成」のそれぞれを因数分解し、要素の数々を机の上に並べて鳥瞰する。その上で「どうしてこうなんだ?」「どうして?」「なぜ?」と玉ねぎの皮を一枚一枚剥くかのような禅問答だ。面倒でもこれをやらないと先には進めない。
「指示を仰ぐ前に自分で考えること」
↓
「うーん...試合中に自分で思考し判断する力を養うことにつながるなあ」
↓
「その思考のスキルは社会に出てもきっと役に立つはずだ!」
そんな感じで一つ一つの意味を分解しては「納得できる位置」に要素を配置していった。そして学生に対しては「都度都度の質問は禁止!」「話した内容は議事録にまとめること」「来年度にも活きるように年間のスケジュールに組み込むこと」など「思考」させて「仕組み化」する、という行動様式のインストールを行っていった。「ふむふむ、こういうことか...いわきFCでやっていることと同じじゃん」「なるほど(帝京大学ラグビー部の)岩出(雅之)監督が言っていたのはまさにこのことじゃん!」といった「気づき」がどんどん生まれていった。さはさりながら、次から次に登場する難題の数々に「底が見えない状態」はずっと続いていく...。
などなどと、最初の2カ月間で費やした僕のエネルギーは近年にないものであった。目の前の問題を解決するたびに「ああ、なんで僕はこんなことをやっているのか」と嘆息し、同時に「これをやり切ることで大学スポーツの闇を晴らすことができる」という薄日が差したような希望の力も湧いてくる。20年前にドームを創業したときにとても似た状況だ(違うのは年齢と体力だけ...疲労困憊の日々であった)。
「よし、やってやる」
「こんな素晴らしい経験、二度とできない」
学生が放つエネルギーに力を借り、20年やってきた経営者では味わえない「新米監督」というビビッドなポジション。
「ごまかしは効かない。とにかく自分を丸出しにして全力でぶつかろう」
星空を見上げながら、そんなことを考え帰路につく日々であった。
複雑骨折① スポーツと医療
そんな中でも、一番困ったのは選手の「怪我」に対する対応である。
「XX選手はドクターから出場許可が出ていますが、出していいでしょうか?」
むむむ...。
ちょっと待ってくれ。ドクターとは面識もないし、そのドクターが何の専門家かも分からない。インチキドクターもたくさん見てきた。そして、もちろん部にも大学にも怪我人に対する「対応マニュアル」など存在しない。突き指や打撲ぐらいなら監督らしく「よし、出ろ!」とも言えるが、脳震盪などクリティカルな症例や部位ほど「ちょっと、それはどうかな...」とどうしようもなく「ふにゃふにゃ」になってしまう。将来のある学生、しかもその将来性を磨くためにここで鍛錬しているのだ。勝った負けたなどよりもっと大事なものがある。直感的にはそう思うが、何より大学としての具体的な判断基準、責任の所在が曖昧なことに相当な違和感を覚えた。僕が卒業したのはもう四半世紀も前のことだ。当時から「怪我の管理」に関する進歩がなく、大学やスポーツ界、そして医学界...もしくは「組織をまたぐ連携ができない日本人」の問題だとも感じた。よし、分からないなら「指導者の先輩」に相談だ...同級生の慶應義塾大学野球部・大久保(秀昭)監督にメールする...。
安田「怪我人の管理ってどうしている? チームドクターってどんな人?」
大久保「野球はチームドクターいないよ」
安田「ん? え? チームドクターいない...って? あれ、球とか当たったり、練習中突然ぶっ倒れたらどうするの?」
大久保「救急車呼ぶしかないよね」
安田「試合にもドクターいないの?」
大久保「看護師が来ているけど、ドクターは時々かな」
と、目を何度こすってみても、そのメールは読んだ通りそのままであった。 それじゃあ夏場の練習で選手が倒れても、熱射病か二日酔いかも分からないではないか...緊急時の対処はとにかく1分1秒を争うものだ。
ということはトレーナーが常駐しているアメリカンフットボール部はまだマシな方か。そんなことを考えながら法政大学川崎総合グランド全体をふと見渡してみる...高校生から大学生まで数百人を超えるであろう様々な部活生が必死に練習をしているではないか。トレーナーは果たして何人いるのだろうか。競技は違うけど「運動」「身体」という意味では中身は同じ。クラブ活動全体を統括する医師やトレーナーを学校で雇用すればどれだけ効果的に安全性が高められるだろうか。同時に、そんな取り組みを最初に行えば少なくとも法政体育会の信頼度は飛躍的に高まり、リクルートには最高だろうし、その上で競技力が強化されれば知名度も上がり大学自体の人気も上がるだろうに...。
とにかく怪我や病気は毎年のように発生し、その原因などの傾向を調べて対策を立てるのが普通だろう。しかし、怪我に限らず、運動部はほとんどの事象に対して「都度都度」対応をして毎年同じ1年を過ごす。チームドクターの制度も連盟や協会の規定に従うだけで、主体的な思考はほとんどないだろう。そして、この連盟や協会も「手弁当」が基本で、大会運営などのルーティンワークに終始しているのが実態だ。少子化による会費の減少という財務上のインパクトも大きい。要は「毎年同じこと」を繰り返しながら「青息吐息」というのが部活・連盟・協会の実情なのである。
大会自体を連盟・協会が主催するから「興行権」も同時にもつことになる。アメリカはもちろん、プロ野球やJリーグでも同様だが、本来試合は「ホームアンドアウェー」で行われるべきであり、ホームチームが興行権を持つことで主体的な営利活動が自然と進むようになる。スタンドなどの環境を整備したり、飲食やグッズなどで収益を上げようとしたり、学生という基礎集客がある大学スポーツだからこそ成立する「手堅いビジネスモデル」である。連盟・協会が手弁当で運営、チームとは無縁の市民スタジアムで高額の使用料を払って試合をする。少子化による縮小均衡で将来のビジョンが描けない、という手詰まり状態から一刻も早く脱却しなくてはならない。
先日、アンダーアーマー本社のCEO、ケビン・プランクが横浜スタジアムに僕の「監督ぶり」と「法政フットボール」をチェックしに来た。
「シュー、俺は目が覚めた気分だ。ここには俺の愛するフットボールが確かに存在する! 雰囲気も技術もすべて本当のフットボール、思ってもみなかったことだ! (スタンドを見上げて)でも、学生は一体どこにいるんだ?」(アメリカでは自校チームの応援は学生生活の一部である)
複雑骨折② 巨大な任意団体
さらに俯瞰してみよう。
大学スポーツには長年続く「慣習的な不備」と「法的な不備」が明確に存在し、その背景には「事なかれ主義」による「ガラパゴス化」があり、結果として「複雑骨折の放置」となってしまった。ここで言う、
「複雑骨折」
に価するものは
「任意団体」
という社会的なステイタスだ。
そう、日本におけるほぼすべての部は、社会的にはなんら義務も責任もない「任意団体」なのである。言ってしまえば、僕自身も「監督」という立場を大学より正式に委嘱されているが、給料をもらっているわけではない。詳細にわたった権利義務の契りを結んだわけでもない。そんな状態で、そもそも150人の若者の命を含む責任を負えるはずがないのだ。しかしながら、任意団体である部の活動は「課外活動」であり、先述したように事件や怪我などの責任は大学にはない、というスタンスが基本である。では米国のように「学生の自己責任か?」と言えばそうでもない。ただただ「責任の所在が曖昧」なだけなのだ。
部活動は大学の施設で行っている活動であり、全国優勝でもすれば大学にとっては大きなメリットがあるし、学長や理事長など大学関係者はここぞとばかりに応援にもくる。オリンピック選手を輩出すれば世界にその名前が轟く。そんな状態で万が一、何かが起こった場合に「責任はありません」という一方的な関係はあり得ないだろう。同時に、大学スポーツは「箱根駅伝」や「ラグビー早明戦」のように「国民的な文化」にもなっていて、チームによっては億単位のお金が動く。法政フットボールでも数千万円のお金が動くが、いかんせん「任意団体」ゆえ、会計基準も申告義務もない。チームグッズやチケットなどを販売しても消費税はもらわないし、払わない。企業経営者として、20年間厳格に税務を行ってきた身としては、この状態を本能的に「恐ろしい」と感じる。そもそも銀行口座が個人名義でしか作れないことも問題の一つの核となる。通帳の名義は「XX大学監督XX」となっていても、その口座はあくまでも個人のものとなり、預金は名義人の個人資産となってしまう。
部の運営費がすべて「コスト」であれば、部費や寮費は収入、すなわち「売上」である。すべての「収支」を計算し、年度末に少しでも資金が余れば本来は「申告納税」をしなくてはならない。そのためには体育会を「体育局(Athletic Department)」にて束ね、大学内部に組み込まねばならない。これこそがガバナンスであり「野宿からまずは雨風をしのぐ」ことにつながる。今のガバナンスは「OB会」というこれまた任意団体からの監視だったり、監督自身の「自己ガバナンス」だったりする。よって監督の「食費」や「ガソリン代」がどこから捻出されているか、全くもって「個人任せ」となってしまっている。「箱根駅伝」に熱狂する前に、社会はこのような「粗野な現実」をしっかりと直視するべきだろう。
医療面で言えば、怪我が予見されるようなスポーツの現場では「スポーツ医療法」などの法整備も不可欠であろう。ここは明らかに法律の不備がある。報道でよくある「痛み止めの注射を打って出場しました」というのも「グレー」であるし、試合会場で救急車が待機することも法律上できないのだ。医師の善意で対処してもらっている...という状態が戦後70年続いており、とても正常な状態、成熟国家の出来事とは思えない。ラグビーW杯やオリンピックを控えて、世界各国から最精鋭のスポーツドクターたちが日本にやって来る。あらゆる医療行為を期間中に行うはずだし、薬物を持ち歩くことになるだろう。それを大会期間中のみ許可するようなダブルスタンダードは許されない。立法府の義務として法律を社会の進化に対応させるのは当然のことだ。大学の体育会が集まっている法政大学川崎総合グランドでは毎日毎日、数百人の学生たちが「怪我をするリスク」を受け入れながら「自己鍛錬」をしている。予見されるリスクに対して必要な医薬品を常備できるなど、適切な法整備と学校側の安全管理体制の整備は急務であろう。
アメリカの高校に留学している15歳の娘から、先日こんなメールがきた。
「こっちでは運動部に入る生徒、全員が脳震盪のテストを受けるよ。学校には専属のトレーナーが8人いて全部の部活をカバーしている。高校だよ。日本ってだいじょうぶ?」
過去を捨て一網打尽に解決する
複雑骨折しながら放置された足首...やはりもう一度「骨折」させねばならない。そしてちゃんと付け直す。イノベーションとは「創造的破壊」の産物である。そう、「任意団体」という状態をぶち壊す必要がある。
安全管理、資金管理、どちらもまずは体育会を「大学の部局」として、学校法人の中に組み込む必要がある。
任意団体から一つの大学の部局へ。すなわち「体育局」の設置である。学校組織に属する体育局を設置し、体育会を束ねる。すべての部活の人事、資金、安全を管理し、同時に「大学の看板」としてマーケティング活動やクラブの強化も担う。学生やOBの大学に対するロイヤリティの醸成、地域との連携などなど、体育局が正常に機能することにより、結果として大学スポーツの産業化が推進される。このように、全くもって合理的な解決策が海の向こうで明確にWorkしている。
大学の目的は「人材育成」であり「机上の勉強」だけで「人材育成」が完成することはない。そして大学自体がそもそも他大学とライバル関係にあり、「発展」を目指すなら自らの成長とマーケティング活動が不可欠となる。「自らの成長」にも「マーケティング」にも、最も有効なものの一つがスポーツであろう。
手前味噌であるが、僕が法政フットボールの監督になることで、将来ある学生が不肖ながら「現役の経営者」から学ぶことも少なくないだろうし、「法政大学」自体のマスコミへの露出量はものすごく増えたのもまた事実である。 優秀な指導者の採用による体育会のアクティベーションは、人材育成とマーケティング、両面で大きく機能する。
そもそも問題の本質は?
スポーツ行政に関してみれば、明治維新以降の「富国強兵」が目的だった「体育教育」から、基礎的な哲学が変わってないことが問題の本質と感じる。法律はそもそも「精神」のあり方を明文化したものだ。そしてその精神はいつしか文化となり、今でも日本にはかつての海軍大将のような「軍神」的な存在を作り上げようとするカルチャーがあるようだ。存在やあり方を美化し、神格化し、神聖化する。柔軟な思考を止め、他の価値観を徹底的に排除する。
「富国強兵」式...まず「グランドに挨拶」をする。「坊主」にしないと野球ができない。1年生には「仕事」がある。僕らの時代はまだそれでも構わない。このあたりの精神論は「水を飲むな!」とまったく同じである。挨拶は人とするものだし、髪型が野球をするわけじゃないし、スポーツをするために来ているわけであって仕事のために入部したわけではない。昨年、U18の野球の国際大会で日本はアメリカに敗北を喫した。坊主頭で360日は野球の練習をしているであろう日本代表は、ロン毛で野球以外にもアメフトやバスケットボールをしながら人生そのものを謳歌しているアメリカの高校生に敗北した。ある新聞報道では「スポーツを冒涜するようなアメリカの高校生の歓喜」とアメリカ野球を批判し、最後まで礼儀正しかった「日本式の野球」を賛美していた。野球はアメリカのスポーツであるし、スポーツは英語である。スポーツは楽しいからやるのであって礼儀正しくするためにやっているのではない。「なぜ日本の野球は負けたのか?」「なぜアメリカは他のスポーツをしながら日本の野球に勝ったのか?」。大切なことはこうした論理的な探究であって、「富国強兵」っぽい感情論の下では合理的な思考は生まれてこない。「よし、明日からまた練習だ!」となってしまうのが関の山だ。
小学生でいえば、「跳び箱」や「マット運動」という種目を、「幼少からスポーツクラブで活躍している学童」と「運動ゼロの肥満の学童」に全く同じようにやらせている。戦前の体育教育は正に「富国強兵」で、目的は主に農家で育つ全学童の一般的な運動能力を同一的に上げること。全員が立派な兵隊さんになれるように開発されたプログラムだ。今では体操教室に通う小学生は明らかに「担任の先生」より上手に跳び箱を飛ぶだろう。
全員を一緒くたに扱うことは全員が不幸になるシステムになりかねない。新1年生へのプレゼントの代名詞でもある「ランドセル」。これももともとは「富国強兵」の残り香。軍人用のカバンがその原型である。しかもこれはルールなのか文化なのか極めて曖昧でありながら、全員がそれを購入する。「戦争反対!」とただ叫ぶよりも、こうした過去からの全体主義的な文化を合理的に見直す作業を丁寧にしていくべきだと思う。アメリカでは運動部に所属すれば体育の単位が取れる。つまり体育の授業は受けなくてもよい。それこそ、運動部はおおよそ体育の授業で身につけるべき以上のことを日々やっている。運動部以外の生徒には、マット運動や跳び箱に近い「基礎的な運動」を義務づければいい話だ。
この辺は、法律同様に時代に合った教育カリキュラムの開発が不可欠であろう。しかしながら現実は「ランドセル」と同様、大きな変革はない。ランドセルも「カラー」が豊富にはなったが、やはり「ランドセル」なのである。体育の授業も「ダンスが加わりました」ではやっぱり「ランドセル」と同じなのである。
「なぜランドセルでなければならないのか?」
この問いに答えを持っている人はどこかにいるのだろうか。
...日本全国にあるほとんどの体育会は、今ある姿を当たり前として数十年まったく変化のないまま、OB会を中心に「勝った負けた」で一喜一憂する組織となってしまっている。何とももったいない話だ。学生スポーツはOBの憩いの場ではなく、監督の自己満足の道具でもない。「勝った負けた」の前に、やらねばならぬことが山ほどある。教育機関として、人々に勇気を与える文化活動として、その価値を最大化する必要がある。
ぜひとも勇気をもって一緒に改革の道を進もうではありませんか!!
この国の可能性を担う
スポーツ改革
試合の4日前に就任した新米監督、学生との疑心暗鬼感満載の日々、学生との間に「すきま風」がビュービュー吹きつける。一つ一つ互いに誠実に解決策を見つけていくことで、徐々に学生との距離が縮まっていったのが唯一の心の支えだった。同時に、僕らの世代には到底見られなかった「圧倒的なひたむきさ」に、この世代に秘められている無限の可能性を感じて、日に日に胸が熱くなっていく思いだった。数々ある質問、迫られる判断...「君たちで考えられることは考えよう!」「質問は『どうしたらいいですか?』ではなくて『これでいいですか?』と、まずは自分で考えてみること!」「すべての判断基準は『正しい』かどうか。嘘をついたらお母さんに叱られたでしょ? お母さんに教わったことを思い出して!」と、まずは自分で考える習慣をつけさせることを第一に考えた。するとどうだろう、その翌日からすぐに反応が表れた。そして全てが100点に近い回答だった。その後の数カ月でグランド内外、あらゆるところでそんな場面や、学生の「成長」と出くわした。目に見えて選手の動きがよくなり、技術が上がっていった。自主的にトレーニングをするようになり、厳しい練習にも自ら立ち向かうようになった。
「方向性さえ与えれば、ものすごい力を発揮する」
この世代の可能性を感じるに十二分の体験だし、それだけに「現代の教育のあり方」を考えさせられるきっかけにもなった。具体的な課題はそのままイコール可能性である。
現在、「日本版NCAA」の発足に向けて、政府が本格的に動き出している。各大学も「体育局設置」に向けて動きが活発化している。関東学院大学では本誌にも何度も登場している小山嚴也副学長が中心となって体育局設置を推進。先ごろドームとパートナーシップを発表した筑波大学は、永田恭介学長の強力なリーダーシップでパートナーシップを実現させたのみならず、筑波大学として「米国の大学体育局」の正式研究をスタートさせた。来年度を目処に学内に「日本版Athletic Department」の設置を目指す。
民主主義の国、日本ではこうした「潮流」は徐々に水を集め、大きなうねりになるだろう。本来、水は上から下にしか流れない。合理的な道筋に水は集まり、流れていく。
さはさりながら、今日にも危険にさらされている子どもがいるし、甘い汁を吸っている指導者もいる。
学生たちの澄んだ力強い瞳は、まるで宇宙のように広大で無限の可能性すら感じさせる。あとどれぐらい、学生たちとがっぷり四つでやれるだろう。
僕が彼らから学ぶことの方がきっと多いかもしれない。だからこそ、僕の学んだこと、感じたこと、知っていること、すべてをみなさんと共有し、すべての知恵や機能が有機的に連携するような大学自体の新しいあり方を模索したい。
「優秀な人材を作り続ける仕組み作り」
もしかしたら、誰もが憧れた「永遠の命」の探究と同じように、魅力的な仕事なのかもしれない。
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※本コラムは、「Dome Journal vol.37」に掲載されたものです。
https://www.domecorp.com/journal/