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社長コラム:PRESIDENT’S COLUMN

vol.059新しい時代へ

新しい時代へ
〜僕たちのデモクラシー〜


2017年1月

今年のキックオフパーティーでは「アンダードッグ」という年度のテーマを発表し、「戦う」姿勢を貫くことを自他共に向け宣言しました。

今年から高校・大学チームの総監督、大学の客員教授という新たな職務に就いたため、文字通り現場での格闘を通じて、多くの学びを得ることができました。本気で戦うことで、問題の本質が見えたり、若い世代の生態系が理解できたり、外形的には理解できていたつもりであったことが...実態は少しばかり違っていたりして、物事がなぜうまく進まないのか、なぜ日本のスポーツには解決すべき問題が放置され続けているか、そんなことに対する具体的な理解が深まったように思います。

たとえば、一般に言う大学の「体育会」についてです。

体育会とは「大学が認定する運動部の連合団体」という建てつけではありますが、実際のところ部活動は課外活動であって、部の社会的ステイタスは任意団体です。文字通り、任意に構成された学生団体であり、彼らの要請に基づき、大学は「体育会」という認定をそれぞれ独自の規定で行うのですが、その基準は大学ごとにバラバラです。したがって大きな大学では、40〜50の団体が「体育会」に認定された状態になっています。
この状態と「コインの裏表」の関係にある課題が「試合の興行権」です。のちに詳しく説明しますが、この「興行権」のすべてを握っているのは、連盟や協会などの「競技団体」です。そしてのこの競技団体も、体育会と同様に任意団体であったり一般社団法人であったりと、社会的なステイタスはバラバラであり、その成り立ちはほぼすべて「競技のOB会」のような形となっています。すなわち「大学」という教育機関が一切関与しない組織であり、それにも関わらず「大学の試合や大会の主催」という興行権のすべてを握っている状態になってしまっています。
それだけでなく「代表チーム、代表監督の選出」「試合への参加資格」や「放映権」など、すべての権利がここに集中しており、結果的に巨大な権力団体にもなっています。反対に、競技団体には安全管理や学生の学業参加の義務づけといった「責任」はいっさいなく「学生、選手は誰のもの?」「学生、選手の安全は誰に責任があるの?」という本質的な課題が完全に抜け落ちた「いびつ」な構造となってしまっています。時折、不祥事を起こすチームや学生は、連盟によって「出場停止処分」などの「制裁」が加えられますが、教育機関でも裁判所でもない一般社団法人や任意団体が一方的に処分を下す状態が慣例となっていて、これが「権力団体」化の根源になっているともいえます。
この状態は誰が意図して作ったわけでもなく、大学が体育会を任意団体にしておいたことに端を発していることは、のちに記載させていただく「NCAA会長」のコメントで理解していただけると思います。

出場停止処分は教育なのか? その効果はどうなのか? その後の学生の更生などのアフターケアは?

などなど、大学がスポーツを切り離したことによって、任意団体や一般社団法人である「学生競技連盟」が、「教育」という本来は大きな責任を伴う課題を、その機能もないままに背負うことになり、結果的に権力団体になってしまった、という構造が僕の中で見えてきました。

処分を下す側である競技団体の職員や理事はどのように選ばれ、どのような義務があるのか、その職務遂行能力はどうなのか。そのチェック機能、すなわちガバナンスはなく、実態としては団体の中の「声の大きな人」によって、こうした制裁などの処分が決められるケースが多く見られます。少し大きな視点から見ると、全国で血のにじむような努力をしている学生たち、そして設備や用具などに大きな投資をしている学校やスポーツ関係者など、数万人、数十万人の尊い努力は、この競技団体にいる「声の大きな人」の支配下にあり、その「声の大きな人」個人の能力と主観により、その競技自体の「力」が限定されている、という実態になってしまっています。結果的に、最も「割りを食っている」のは本来の主役である「学生」という、本末転倒の教育環境になっているのです。


夜明け前の暗闇

繰り返しますが、本来、学生は大学に在籍しているのであって、「体育会の学生は大学のもの」と考えるべきです。しかし部活動は課外活動ゆえ、その定義づけはそれぞれの競技団体によって行われているのが現状です。つまり、大学が体育会と呼ぼうが呼ぶまいが、その実態は「連盟や協会など競技団体が主催する試合に出れるかどうか」によって「体育会」という定義がなされている状態、ということです。違う言い方をすれば、競技団体が大学のサークルチームの「試合への参加を承認」すれば、大学がそのチームを体育会と認定しようがサークルと呼ぼうが、試合には出場できます。
このフォーマットが日本全国の学校スポーツの発展を阻害する大きな要因となっており、結果として安全管理、教育的観点からの学業支援、コンプライアンスのあり方などがおざなりにされています。
例えば「アメリカンフットボール」という競技は、アメリカでは国民的な人気を誇る巨大なスポーツです。でも、日本ではほんのごく一部のファンの興味の対象に過ぎません。それは競技団体が「試合」や「大会」を主催するため、その競技に興味を持つ人のみにしかアプローチできず、同時に団体の実力と「ヒトモノカネ」というリソースの域でしか運営できないからです。
学校スポーツが大きく発展しているアメリカでは、特に大学においては、大学がチームを所有し、アスレチックデパートメントが大学の組織として、チーム強化やマーケティングなどの組織運営、安全管理、学業支援などを統括して行います。そんな大学同士のアライアンスで組成される「カンファレンス」によって、試合や大会の運営がなされます。それにより、「大学同士の戦い」という構図が生まれ、特定の種目のファンに限らず、一般学生や地域住民、多くのOBや在籍する学生の関係者など、あらゆる人々の興味の対象となります。この「カンファレンス」自体、所属する大学の正式な代表者からすべての理事が選出されるため、日本の競技団体と違って、明確な教育団体として健全な発展を遂げています。「NCAA」は簡単にいうと、この「カンファレンス」の取りまとめ役であり、そのままイコール「大学の意志の集合体」となっています。

「大学が運動部を所有する」ことで、試合はホームアンドアウェー方式のフォーマットが前提となります。同時に試合の興行権はすべてホームチームの大学が所有するため、大学における最も重要で大きなイベントの一つとなります。学生数が数万人、予算規模が数千億円の大学同士のプライドをかけたゲームは、強大なマーケティングツールとなるため、チームがかける予算も破格になります。当然のことながら競技レベルも上がり、チケット、グッズ販売や放映権料などの収入が上がるばかりでなく、学校の知名度が上がり、世界各国にいる優秀な学生のリクルートにつながっていく...という「エコシステム」が成り立ちます。
細かい話ですが、この場合の興行収入は100%ホームチーム側が得るため、大学には投資相応の見返りが入る仕組みになっています。
また、興行権に近い概念に「放映権」というものがあります。これはアメリカでは「選手など個人の肖像権」「チーム、個人、学校、競技団体の財産権」「チーム、個人、学校、競技団体の著作権」という3つの権利から成り立っていると定義され、試合の放映権料はそれぞれのカンファレンスにより、各大学に公正に分配される仕組みが作られています。NCAAを構成するカンファレンスが代表してゲームの放映権の交渉を各テレビ局と行うため、競争原理が働き、放映権料(=大学の収入)が飛躍的に上がっていきます。
対して、再び日本の状況を見てみると...。競技団体の規約により「放映権」は団体が独占的に所有する、と明記されていたり、選手の肖像権などの権利が無視された状態で、勝手に放送されたりしています。当然のことながら、この放映権料は大学に一切入ってきません。同時に、競技団体の活動のベースは加盟している部の部員から徴収する「登録料」となり、当然のことながら、その予算規模はかなり寂しいものになります。結果的に、ゲーム運営やイベント運営のプロフェッショナルを雇用することもできず、試合内容はともかく、建てつけがしょっぱいものばかりとなってしまいます。日本の大学の予算規模は数百億円から数千億円あるわけで、この巨大なリソースをまるで活かせていない状態となってしまっています。この基本構造は、高校、大学、そしてすべての競技団体でほぼ同じです。ここまでは、このフォーマットがいかにスポーツの可能性を制約しているかを述べてきましたが、より重要なことは「リスク」です。この運営フォーマットにおける最大の課題は「安全管理」「会計(納税、申告、不正、給料、予算執行、そもそも誰のお金か、など)」「コンプライアンス」という3つのリスク管理に集約されると思っています。

ここからは「安全管理」について少し掘り下げてみます。夏の高校野球を例に挙げます。

40度を超える猛暑の中、高校球児は連日、まさに死闘を繰り広げます。では、ここで学生が熱中症で倒れ、重篤な障害を持つようになってしまったら、いったい誰の責任になるのでしょうか。
あくまでも責任の所在についての事例ですが、もし、アメリカの留学生がそうなってしまったら、こうした権利義務の関係に詳しい彼の両親は間違いなく、試合の主催者に対して訴訟を起こすと思います。つまり、外形的に熱中症になる環境で試合を組んでいること、十分な安全対策がなされてないことは未必の故意ともいえ、そこに問題の本質があると考えます。特にこの大会は企業も主催者になっていて、その企業は莫大な広告効果を得ているはずです。つまり、連盟は興行権という権利を有し、主催企業は宣伝効果を享受しているにも関わらず、安全対策という義務を負わぬ状態となってしまっている、ということです。
もう一つ。高校スポーツにおける「全国大会」というフォーマットも、競技団体が独自に決めたもので、人口約57万人の鳥取県と約920万人の神奈川県が同じ条件で一つの代表を決めるような「不公平な状態」になっています。特にラグビーのようなコンタクトスポーツにおいて、この課題は安全対策上、もはや看過できる状態ではなくなっていると思います。
県代表制という全国大会のフォーマットにおいては、強豪校とそうではない学校の実力差があまりにも大きく、競技団体はシードを作ることで調整しようと試みてはいます。しかし、シードを持たない学校は連戦による消耗を強いられ、より危険度が増してしまうでしょう。そして野球やラグビーのみならず、ほとんどの大会がトーナメント制ということもあり、全国の半分の高校は1試合しかできないことになります。そもそも学生が不憫ですし、教育であるはずのスポーツ・部活がその威力を十分に発揮しているとはいえません。
アメリカやヨーロッパでは、この年代のゲーム運営はリーグ戦形式が一般的です。そして、同規模の学校同士でリーグが組成され、学校が試合の主催者となるため、安全管理上適切な運営がなされ、より多くの学生が試合に参加できます。
ここでも、あくまでも教育を目的とするスポーツのあり方が明確になっています。例えば「このスポーツで俺は一番になる」と思っている学生は、スポーツに力を入れている学校に行けばいいですし、「スポーツはやりたいけど、あくまでも学業が第一」と考える学生は、そのようなリーグに加盟している学校を選べばいいのです。そんな風に最初から個人の選択肢があることで、スポーツと教育が両立しています。

ここでは誰を批判したいわけでもありません。複雑に絡み合ってしまい、なかなか発展できない日本のスポーツ界の仕組みを因数分解して、課題を整理したいのです。そして、その現状をより多くの人に知ってもらい、魅力あふれるスポーツの発展に向けた解決策を、みんなで考えていきたい、という思いです。
・学校は任意団体としての部を所有しない。
・興行権を、競技団体が独占している。

このいびつ状態の整理が「ボタンの1つ目」だと思っています。未来ある若者に対して、何ができるか。会社として、個人として、皆さんとともに、解決に向けた一歩を踏み出せればと思っています。


NCAA会長の来日

今年8月、NCAAのマーク・エマート会長に来日していただきました。ご存じの通りNCAAとは「全米大学体育協会」のことであり、日本とはまったく利害関係がなく、今回の来日の実現はまさにエマート会長の厚意というひと言に尽きます。ドームが筑波大学と取り組む体育会の改革、すなわちアスレチックデパートメント設置のため、テンプル大学を交えた三者の共同研究を開始して以来、NCAAからもその動きが注目され、会長にまでその興味が届いた。それが来日の背景です。

アメリカのスポーツ界の大いなる発展に正面から向き合えたのが2012年、今から5年前のことです。僕自身は「Generation X」「新人類」などと呼ばれた、バブル期に学生だった世代です。「Japan as No.1」という言葉が世界中から聞こえ、企業の時価総額ランキングのトップ10のほとんどに日本企業が名を連ねていた時代です。学生時代は、日本の一流企業に就職することはすなわち、そのまま「世界を支配する」ことを意味している、と思っていました。
そんな「刷り込み」があった僕ですから、2008年の「リーマンショック」では「アメリカが日本にやっと追いついた」と考えていました。ここから不良債権処理が始まり、アメリカ人のレイジーな生活習慣から考えると、日本の経済再建よりよっぽど大変だろう...という「謎の上から目線」でアメリカを見ていました。まさに旧日本軍の「米兵は精神的に弱く、神軍である我が日本が負けるはずがない」という感覚とほぼ同じでした。
しかし、そこからのアメリカの復活はまさに、僕の「刷り込み」を木っ端微塵に打ち砕いてくれるに十分でした。日本ではバブル崩壊後、数々の企業チームが消滅し、サッカー以外の競技はプロ化に失敗、スポーツ界の低迷が始まっていました。アメリカでも同じような現象が起こるはず。例えば賞金がつり上がっていたゴルフツアーはスポンサーがどんどんいなくなるだろう...年俸の高騰を続けていたメジャーリーグは経営破綻するのではないか...などなど、日本と同じ状況を想像していた僕は、自分の狭い知恵や思い込みで物事を考えることの愚かさを思い知りました。アメリカは少しだけしゃがみはしましたが、その後、見事にジャンプして、停滞どころか大いなる発展を遂げたのです。

自分の「刷り込み」が壊れたことは、本当に幸運でした。固定観念を捨てて、アメリカのスポーツ産業を俯瞰してみること、より具体的にその発展の「理由」を探すこと、そこに着手したのが2012年でした。翌年のドームキックオフパーティーにて「スポーツの産業化」を目的にした「祭り」というテーマを設定し、日本もスポーツの産業化により、もっともっと発展できることを力いっぱいお伝えしました。

ここを起点に、自分たちのビジネスに直接は関係しない「スポーツの可能性の啓蒙活動」を、あらゆる場面で行ってきました。その一つの結果として「日本版NCAA」というものがあります。実際はまだ結果に結びついてはいませんが、世の中にNCAAの存在を知ってもらうという意味では、大きな前進といえます。ここでは、エマート会長からいただいた具体的なコメントを列記することで「夜明け前の日本」への処方箋のイメージを共有したいと思います。

・まず私自身、教育者である(大学の学長を歴任)。
・NCAAの始まりは110年前。そこからは課題解決の歴史であり、今でも1000人以上のスタッフによる課題解決の日々である。
・NCAAが生まれたきっかけは安全対策。アメリカンフットボールの試合で死亡事故が相次ぎ、大学スポーツ廃止論が世の中で高まったことに端を発する。
・当時の大学スポーツは日本と同様、クラブチームという任意団体によるものだった。よってハーバード大学など有力校で「大学はスポーツを禁止にすべき」という意見が多数あった。
・しかし「スポーツは教育に有益である」という意見も多く、大学スポーツの支援者であった当時のルーズベルト大統領が、スポーツ推進派の大学の学長60人あまりを招集。「みんなで安全対策など、大学スポーツのあり方を考えてほしい」と促したことが、NCAA成立の起源。
・その議論の中で、大学スポーツは大学の正式な活動となり、大学自体がチームを所有することになった。それに伴い、会計や人事権などもすべて大学の管轄下に入った。
・NCAAはこのような「大学の意志の集合体」として構成、運営されている。
・NCAAは主に、大学がスポーツにかける予算規模によって3つのディビジョンで構成される。
・どのディビジョンに入るかは、大学が自らの意志によって決める。
・アイビーリーグなど学業で高名な学校もディビジョン1に属し、反対に大学の規模は大きいけれどスポーツにはそこまで力を入れないシカゴ大などはディビジョン3を選択し、できるだけ同じ条件で試合を運営できるように考えられている。
・各ディビジョンでチャンピオンシップゲームを主催する。そのゲームはすべての学生に目標を与えること、最高の体験をさせることを目的に、テレビ中継などを含む大きなイベントとして開催される。
・NCAAの収益は約1000億円。その収益のほとんどはこうしたチャンピオンシップゲームの運営費用に使われたり、各大学に直接還元される。
・1000以上の加盟校の中で、スポーツで直接黒字を出している学校は約20校に過ぎない。その他はスポーツ活動を、あくまでも教育としての有益性、学生やOBの一体感の醸成、学校を広く世に知らせるマーケティング効果などの理由で、積極的に支援している。
・スポーツは本当に教育に有益である。リーダーシップ、積極性、努力、協調性、物事がうまくいかない時の耐性、などなど、多くの若い人たちがこの貴重な経験を積むことを願っている。

NCAAについてはこれまで多くの勉強をしてきたつもりでしたが、会長自ら、学生や大学スポーツに対する温かく熱い思いを伝えてくれたこと、携わっている御本人からそのニュアンスなども聞けたことなどにより、理解がさらに深まったように感じました。NCAAの基本理念は3つあります。

・Academics(学業)
・Well-being(幸福、健全、健康な状態)
・Fairness(公正さ)

NCAAが教育機関の集合体であることは、このシンプルな3つの言葉からも明らかだと思います。ボタンの一つ目はまさにここにある、と確信するとともに、心の中の暗闇が一気に晴れそうな気持ちにさせてくれた、エマート会長の来日でした。人の縁は本当に温かく、貴重です。


変化の兆し、そして"これから"

昨年来、文字通り「アンダードッグ」となって、法政大学アメリカンフットボール部総監督、そして筑波大学アスレチックデパートメント設置準備室長、日本版NCAAのワーキンググループメンバーなどの新たな役割にチャレンジし、環境は大きく変化しました。自分が次に来る若い世代のために時代の突破口を切り開くべく、矢面に立つ覚悟でした。
大学の運動部自体が任意団体であり、その責任者として、勝敗よりも大事なガバナンスをまずは自分でつくらねばなりませんでした。すべてにおいて公正さが必要で、主観ではない合理性を探し出してきました。そのために現在の「うまくいっていない構造の分析」と「アメリカの成功事例」の具体的な比較を通じて、戦後70年間にわたるスポーツ界の歴史を反対側から紐解く作業を、何十人もの人たちと何十、何百時間もの時間を費やし、繰り返し繰り返し行ってきました。同時に実行という「相手がいる」プロセスに関しては、ただただひたすらに「敬意」を持って「誠実」に人々と向き合ってきました。誰もがスポーツを愛し、学生に気持ちをたむけ、日本の未来を考えています。
リーダーがしなくてはいけないことは「ビジョンの作成」と「矢面に立つ」こと。この二つの大仕事があると、個人的には思っています。「ビジョンの作成」は前記した通り、膨大な実作業の連続による収斂作業であり、大きなリソースが必要です。そのため、ドーム社員を中心に多くの人々の時間と力を借りて、事実の検証作業を続けてきました。

検証を重ねたことによる合理的な方策であったり、そもそもの道理のようなもの、それらを「誠意」を持って関係者に直接話す、そんな日々を繰り返しました。これが僕にとっての「アンダードッグ」な生き方になっていました。

そんな中、少し違う風が吹いてきました。それは「学生」という「主役たち」によるものです。

何度か本誌にも書かせていただきましたが、今の学生の潜在能力は非常に高いと思っています。そして、具体的な活動をともに行ってきたことによる蓄積で、その潜在能力に火が灯ったような感覚が僕の中に芽生えてきました。今まで大人たちに向けてきた矢印。大人たちが改革しなければならない、と盲目的に考えていたのですが、思わぬところから学生たちの意志がたくましく息吹いてきた感覚がありました。

本誌を読んだ学生たち、そもそも自分たちの活動に疑問を感じていた学生たち、自分たちの未来を真剣に考える学生たちが、合理性に触れ、真実に触れ、より発展した仕組みに触れ、大いなる刺激を受けている。そんな様子が、僕に伝わってきています。

改革しなければならない大人たち。その中の一人である僕。企業としての活動、指導者としての活動、教育者としての活動。

「アンダードッグ」な活動は、結果的にまた新たな発見と出会うきっかけとなりました。

「そうか。すべては学生のものだったんだ」

僕らの学生時代はまだまだ学生運動が盛んでした。生活自体にそもそもの疑問を感じ、若い力を社会構造の変革にぶつけてきた学生たち。体制や権力にぶつかって、正義を追求してきた若者たち。社会構造は変わっても、彼らの持つ本質的な権利やその若い力は何ら変わりません。その若いエネルギーをスポーツにぶつけ、そのスポーツのあり方と真剣に向き合う学生たち。そんな学生たちが徐々に増え始めていること、そしてそんな若者たちに、知らず知らず勇気をもらえていることに気づきました。

「そうだ、そうなんだ。大人が行う大人の改革じゃダメだ。みんなで行うみんなの改革なんだ」

「体育会系イノベーション」を掲げ、選手の主体性を引き上げ、徹底した科学的視点による合理的なプロセスを追求することにより大学選手権8連覇を達成した、帝京大学ラグビー部の岩出雅之監督。体育会系イノベーション...まさに社会構造の変革を目指し、日本のスポーツチームのあり方を、理屈ではなく実力で証明し続けています。そしていつの間にか岩出監督の元には、僕の同級生の指導者が集まっていました。花咲徳栄高校・岩井、慶應義塾大学・大久保、日本体育大学・古城...彼らもこの体育会系イノベーションを実践することで、結果を残し始めました。旧態依然とした上意下達ではない指導方針。その主役はあくまでも選手、スタッフたち。つまり学生の潜在能力を最大化させることです。

このつながりが徐々に、大きく横に広がっていくこと。主役である学生たちが、真の主役へと成長していくこと。そして主役も脇役も老いも若きも、誰もが「うん、俺もやっていいんだ」「私にも何かできるかもしれない」と気づき、そんなエネルギーが日本に充満していくこと。

僕はこれを

「僕たちのデモクラシー」

と名づけよう。チームの改革が個人の改革につながり、強い個人のつながりが勇気となり、組織や仕組みを変えていく。

来るべき2018年。僕の存在がどんどん小さくなっていくこと。そして心ある人全員がその主役となって参画し、自分たちで自分たちの未来を切り拓いていく社会を実現する。そんな夢を見ながら、豊かな心で新年を迎えたいと思います。


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※本コラムは、「Dome Journal vol.41」に掲載されたものです。
https://www.domecorp.com/journal/

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