vol.036あるがまま、そのまま
いつからだろうか。
目覚まし時計をセットしなくなって、かれこれ数年が経っているだろう。目覚ましなしで、決まって6時から6時半の間に目が覚める。それまでも6時半に目覚ましをセットしていたのだが、たいてい、6時半前には目が覚めてしまうため、鳴らない目覚ましをいちいち止めるのが億劫に感じるようになった。木漏れ日の中、ゆっくり新聞を読むのがボクの朝一番のルーティーン...心地よい静寂のひと時、突然消し忘れたアラームが2階の寝室でけたたましく鳴り響く。朝の清々しい気持ちが、無機質なアラーム音によって何度台無しにされたことか。
こんなんだったら、目覚ましなんか最初からかける必要ないじゃん(多少の寝坊は社長だから許してもらえるし...)
と、心の中で我がままな決着を付けてから、滅多なことが無い限り、目覚ましをかけることが無くなった。
取り立てて規則正しい生活をしている訳ではない。でも、体内時計が緩やかに朝の訪れを示し、たいていは気持ちよく目覚めることが出来る。「週末くらいゆっくり眠ろう」と思ったところで、同じように6時半には目が覚めてしまい、更に困ったことに"二度寝"したくても出来やしない。
学生時代から、眠りは浅いほうであった。6、7年前だろうか、IBMのテレビコマーシャルにて...
「先生、最近眠れないんです。」という不眠症の男と診断する医師。医師は患者の頭の中を診断して曰く「眠れない原因はこれですよ。」と頭の中身を患者に見せる...患者の頭の中は、メモ書きいっぱいのポストイットに埋め尽くされている...
と、いうのがあった。
「それを解決するのがIBMのコンピューターです!」という見事な設定のコマーシャルなのだが、不眠症に悩む人々が苦笑と共に「うんうん」と唸っている姿が目に浮かんだ。眠りが浅いのは、責任感が強いのか、心配性なのか、はたまた本当に目の前の現実が大変なのか...
そんなCMに苦笑しながら「うんうん、分かる分かる」と唸っていた頃、本屋でふと目に留まった本に「ブッタとシッタカブッタ」というのがあった。本...ではなく中身は漫画なのだが、なぜか本のコーナー、しかも本屋さんでは常に好位置を保ち、平積みにされている自己啓発的書籍コーナーにその本はあった。その漫画の副題が「答えはボクにある」...そんな副題になぜか惹かれるものがあり、何の気なしに買ってみた。その漫画、実は仏教の基本的な考えを、シッタカブッタという子豚を主人公に仕立て、4コマ漫画として、順序だてて、分かりやすく書いているものだった。当時のボクにとっては、それは仏教を知る、というものではなく、物事の考え方、物事のあり方、そんな物を客観的に考え直させてくれる秀逸な内容であった。
そもそも人類の誕生...どこからカウントするかは別にして...少なくとも数万年の人類の営みの中、人の数だけ悩みがあり...人が抱えている悩みは数知れず...ということを考えると、その悩みや苦労、苦悩を解決しようと試みるのが人間であり、その流れで片や技術が発達した、そしてもう一方では、精神文化とでもいうのか「悩み→解決策の模索」の繰り返しの一部が仏教という最大公約数的最適解を編纂していったのだなあ...と感じた。「昔から人々は同じような悩みを抱えていたんだなぁ...」という一体感的安心感と共に、そんなちょっと面倒な人類の歴史の流れを「ブッタとシッタカブッタ」では清々しく微笑ましく描かれていて、ボクの心にダイレクトに響いた。
同時に、古代の神話や哲学、その他の宗教も同じような経緯や歴史を経て、練り上げられたのだ...と思うと、現代社会のあり方(ないしはありのままの姿)が見えてくるようにも感じた。つまり、お祭り、刺青、門松、神社、なまはげ、盆踊り、だんじり祭り(西洋なら、クリスマス、ピアス、イースター、教会、魔女、牛追い祭り? トマト投げまくり祭り?etc.でしょうか。)...などなど、無くなっても誰も困らない文化的事象の数々が、科学的な理由付けが無いまま現代社会において「ドーン」と生活の中心付近に存在している。「お祭りってなんでやるの?」と子供に聞かれて、論理的な説明が出来る人が何人いるだろうか。そしてそれら説明の出来ない事象の数々が、人々の心の隙間をちょっとずつ埋めているのも事実なのである。お守りを握り締めて、最新鋭のジェット旅客機に乗る...それが人間なのである。
だいぶ話はそれてしまったが、睡眠の話。恋の悩みを抱えているシッタカブッタ、彼女のことを思い、3日間眠れない夜を過ごす。心身ともに疲労困憊してブッタに相談する。ブッタは面倒臭そうに答える、「そのうち眠れるよ。」と。4日目、シッタカブッタは本当の睡魔に襲われ、彼女のことは気にも留めずに熟睡する...
こんな単純なストーリー、しかもたった4コマ。これを読んで、眠れない自分...否、眠れない事に悩む自分と完全決別できた。単純な人間に産んでくれた両親に感謝すべきか。そう、人間、眠かったら眠れるのである。あまりにも当たり前すぎる話なのだ! あるがままの自分を受け入れ、受け入れ続けることで悩みそのものが徐々に自分と同化して行き、最後は、あるがままがそのままの自分となり、あらゆる悩みや考え事があたかも"眉毛"かのごとく、ただ自分に付着しているだけの存在となる。そう、悩む自分も、眠れない自分も、疲れ果てて何も考えずに熟睡する自分も、すべてそのまま自分なのである。眠れない夜に、IBMのコンピューターは必要なかったのだ!
小学生の頃、かすかな記憶ではあるが、薬師寺の高名(高名を失念しております...)なお坊さんの講演があった。そのお坊さんの講演、自己紹介も何も無く、いきなり...
とらわれない こころ
かたよらない こころ
こだわらない こころ
ひろく ひろく もっとひろく
これが般若心経 空のこころなり
と、もの凄い迫力で変なポエムの朗読を始めた。今になって、調べてみると薬師寺の元館長である高田好胤氏の有名な言葉であるが「ブッタとシッタカブッタ」を読むことで、当時の感じた強烈なインパクトがまるで昨日の出来事かのごとく蘇った。何かにとらわれて苦しみ、偏った見方により考えすぎ、こだわってしまうから悩む。心を「空」にすることで、モノの見方、自分の身の処し方が一味違ってくる。肩の力が抜けることで、困難に抗するアイデアが浮かぶ。心にゆとりが生まれることで、自然に笑顔になり、人々に囲まれ、自分を良い方向に導いてくれる。
「ブッタとシッタカブッタ」と出会い、般若心経に興味を持って関連する本をたくさん読んだ。なぜか、バランスが取りたくなって、キリスト教の本も何冊か買ってみた。それらから学んだことは、人間はいついかなる時代も悩みと共存している、ということだ。同時に、その悩みを解決するために、人々は考え、苦しみ、試行し...何万年分、何兆人分もの悩みと共に現在がある、ということ。そして、それは人に眉毛があるかのごとく、全くの自然なことなのだ。
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。」
草枕の冒頭。今から100年も前に書かれたこの一説、古さの欠片もなく、みずみずしく心に染み渡る。
「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす おごれる人も久しからず・・・」
平家物語の冒頭。どんなに栄えても、いつかは朽ち果てる。人は生まれ、死んで行く。そしてそれは全くの普通なこと。
目覚ましをかけていた頃のボクは、眠りの浅い自分を恐れていた。睡眠不足のまま、翌日を迎えるのが怖かった。「睡眠時間を出来るだけ確保したい!」そんな欲望が自分を支配していたのだと思う。
「眠れなかったら、眠れないでいいじゃん。多分、そんなに眠くないんだよ。」
そう思ったら、眠れるし、目覚める。
なんだ、これ??
当たり前のことを当たり前にやっているだけ、"ニカウ"さんと同じ状態ではないか・・・。
いずれにせよ、こうしてボクは目覚ましが不要になりました。
おかげさまで、朝のひと時をトレーニングに充当できる日々。大事な一日の始まりを、自らの意志で支配できる・・・うーん、最高です。
頭の中はポストイットで満載...という方、どうぞ愛情込めてポストイットと添い寝してみてください。
囚われない心、偏らない心、拘らない心、広く広く、もっと広く・・・ちょーだだっぴろく!
皆、あなたの笑顔が大好きです。
さあ、今日もすっきり笑顔で一日、頑張りましょう!