• ACCESS / CONTACT
  • UNDER ARMOUR
  • Facebook
MENU
  • TOP
  • 社長コラム
  • 宝物はグランドに... アメリカンフットボールの話 その1

社長コラム:PRESIDENT’S COLUMN

vol.005宝物はグランドに... アメリカンフットボールの話 その1

法政二高入学後、僕はアメリカンフットボールを始めた。入学した年は1985年だから今から約16年も前の話である。アメリカンフットボール選手としての僕は、高校時代は主将としてチームをベスト8に導き、法政大学時代は4年時に主将を務め、チームをブロック優勝に導いたり、連勝中の日本大学を破ったり、3、4年と全日本代表メンバーに選ばれたりと、それなりに華やかな現役生活を送った。

その後、ボランティアコーチとして大学に残り、指導者としてもある程度の実績を残すことができた。また、ボランティアコーチを辞めた後、「半プロ」として社会人リーグであるXリーグの「日産プリンス東京スカイライナーズ」、「住友銀行スプリングス」、「五洋建設パイレーツ」でコーチを「業」として行った。また1998年にはNFLヨーロッパリーグの「インターンコーチ」として米国のプロチームに所属するというチャンスにも恵まれたりもした。選手時代を含め、最後のチームである「五洋建設パイレーツ」に所属した1999年まで...つまり15年間もの間、アメリカンフットボールの現場にいたことになる。今年 32歳になる僕の人生の半分くらい....モノゴコロつくのが4-5歳だと考えると人生の大半をアメリカンフットボールと暮らしていた気がするくらいだ。

特に自慢をしたり、過去をひけらかしたりする気持ちは更々ない。いつでも「明日」に一番興味があり「今」が一番好きで、燃えて毎日を過ごしている。ただそんなふうに「明日」と「未来」を楽しめるのは「昨日まで」のアメリカンフットボールがあったからに他ならない。

大学卒業後は社会人として、一日の大半を「通常の仕事」に費やしていた。従い、コーチとしての8年間において、アメリカンフットボールとのつながりはそれほど濃いものではなく、僕にとってのアメリカンフットボールは大学までの8年間でほぼ「燃焼済み」といったこところであろうか。その燃焼が「完全燃焼」だったかどうかは別にして、とにかく濃密で独特で、更には「かけがえ」の無い意義深い毎日を過ごせたことだけは事実である。僕にとっての小さな小さな「宝物」、誰にも邪魔されない、誰にも犯すことのできない絶対的な「宝物」は武蔵小杉のグランドにあるのだ...

目を閉じれば...

* セミの鳴き声を聞きながら、アメフトのグランドに続く「野球場とサッカー場の間」の小道をテクテク歩いている僕がいる... 練習に向かう緊張感、毎日が真剣勝負だった。
* 先輩に投げ飛ばされて、顔からグランドに突っ込み、口一杯に土を含んだ僕がいる... 塩ッ気が全くない何とも言えない土の味を初めて知った。
* 水も凍るような真冬の練習後、外の水道から出る「凍てつく水」で身体を洗いながら仲間とはしゃいでいた僕がいる...  冷たくても寒くても、練習が終わった達成感と爽快感がたまらなかった。
* 怖くて怖くてたまらなかった三年生の引退試合、溢れ出る洪水のような涙を止められずに身体を震わせていた僕がいる... 初めて味わう制御できない激情、そして明日の自分への闘志を感じて泣きに泣いた。

あらゆる光景が、まるで昨日の出来事かのように、生々しく思い出される。


学んだこと; 「やる」ということ。
各論でいえば様々な具体論がある。ただ、総論としては「やる」ことの本質的な意義を学んだ。

* まず自分が率先して「やる」
* 嫌なことから「やる」
* やられる前に「やる」
* 気づいたら「やる」
* 思ったら「やる」
* 熟慮して最良の方法でロジカルに「やる」
* 「不可能」なことを実現する為、どうにかして「やる」
* 「やられた」ら絶対に「やり」返す!

これらの「やる」によって、悔しさ、悲しさ、嬉しさ等々を実感することができる。「やる」という主体的で具体的な行動...努力ともいうのだろうが...が自分を「人間に仕上げてくれた」という気がしてならない。だからグランドで過ごした一瞬一瞬が僕にとっては宝物なのだ。「人間」という言葉の定義は色々あるだろう。ただ、僕とっては「自分の心が激しく震える時」、つまり「感情」を持つという事実が「人間」なのである。悔しい時、悲しい時、苦しい時、嬉しい時、なんだか分からないけど燃えてしょうがない時、そんな瞬間にいつも「人間」であることを自覚する。何もかもが上手くいかない時、「ああ、なんで俺ばっかりこんな不幸な人生なんだろう」と嘆息し、真夜中の神社にお参りに行く。(実際には怖くて引き返した...。)反対にそんな重ねていた苦労がほんの少しでも「実った」ということを感じられた時、「俺なら世界すら動かせる」という公共心溢れる自我が熱く燃え上がる。どちらも身体の芯から湧き上がる「感情」で「生きている」という事実を感じざるを得ない。(真夜中の神社で感じた恐怖もまたすごい「感情」だった。ほんと、怖かった...)

とにかく「やる」こと無しには何も始まらない。こんな行動原則を教わったのが高校、大学の7年間をともに過ごしたアメリカンフットボールなのだ。誤解して欲しくないのだが、僕にとって最も「学んだこと」が、アメリカンフットボールからだった、ということであって、特にスポーツオリエンテッドなステレオタイプの意見ではない。若くて多感な時期に燃えながら、悲喜こもごも、色々な挑戦を具体的にできた、ということが大きなポイントなのである。一般論にひき直せばアメリカンフットボールはあくまでもその道具に過ぎない、ということ。それが僕にとっては「たまたま」アメリカンフットボールだった訳で、あくまでも大切なのは「やる」ということなのである。また、何かを学ぶ時期においても、僕の場合は偶然、高校、大学であったが、それは人それぞれ様々であろう。大切なのは「なんであれ」「どこであれ」「いつであれ」「やる」ということなのである。ただ、一度の人生でそんなに沢山のモノに燃えられるものではない。人それぞれいろんな宝物があるだろう。という訳で、僕にとっての宝物をちょっと具体的に書いてみよう...!

最初の「やる」は正に入部の瞬間だ。
中学時代、バレーボール部に所属していた僕は、身長176cmで少し太めだったが、一応2年生から「エース」だったし、バレーボールは大好きだった。中学当時からなぜか研究熱心で「バレーボール」と名のつく本は殆ど買っていた。技術、戦略とも具体的な「後ろ盾」を持ちながら取り組むことの大切さはこの頃に学んだと思う。中学生のクセに、、、本に載っていた技術... 例えばサーブ、フローターサーブ、オーバーハンドサーブ、ドライブサーブ、ジャンプサーブと4 つも使い分けていた。本に出ていた分解写真を見ながら、時には親父にビデオを撮ってもらって客観的に比較、研究し、そこそこちゃんと練習もしたので、それなりにプレーは出来ていたと思う。今でも体育館に行けばドライブサーブくらいは打てるだろう。(今は誰も使わないが... ミュンヘンオリンピックのゴールドメダリスト、森田淳悟選手のオハコだったやつだ! また、森田選手の弟子で現在はTVキャスターの川合俊一選手が日体大時代にはやはりこのドライブサーブで常にサーブ賞を獲っていたと記憶している。)ただ、エースポジションも勝ち取った訳ではなく、単に他人より背が高かったからで、「やる」ことの大切さも感じたことはなく、勝ち負けには一喜一憂したけど、心から込み上げてくるような達成感も涙が出るほどの悔しさも味わったことがなかった。

そんな僕は15歳の春、運動の名門で「春高バレー」や「甲子園」の常連、「法政ニ高」に入学が決まった訳だが、何故か「根性」がなく運動部に入る気は「全く」なかった。と、いうのも中学校のバレー部の先輩達が、それぞれ高校のバレー部に入部して高校の練習の辛さをつぶさに語っていたからに他ならない。 まず、「練習が毎日ある」ということ。今思えば当たり前のことなのだが、中学の練習は週3日。練習が毎日あったら... 海へ行ったり、プール行ったり、スキー行ったりと憧れていたハイスクールライフをエンジョイすることが出来ない。これは大問題、「僕には向いていない。」 次に練習自体が厳しい、ということだ。 中学生の時も夏の練習はきつかった。ただ、中学生の時は、、、何のために辛い思いをするのか、さっぱり分からなかった。だから主体的にそれに挑む、ということは全く無かった。ちょっと練習に厳しさが増してくると、、、「流す」、つまり「キツイ振り」、、、実際にキツイのだが、全力を出し切る前に、力を抜いてパワーをセーブしたりしていた。目標のないなかで...区大会での勝ち負けなんて、はっきり言ってそんなに大きな目標ではなかった。もっといえば、根性を出して苦労するのが損な気分さえした。そんな僕に高校生のOB達は「今年の夏合宿は2人ぶっ倒れて入院したね。俺もギリギリ、毎日ゲロ吐いて練習してたよ。」と、自慢気にその様子を語る。「ぶっ倒れて入院」も「ゲロ吐いて練習」も「つらくなったら流す」ことが「正義」だった僕にとってはとても受け入れられることではない、、、だけでなく常人の沙汰とは思えない異常な世界であった。また、そんなOB達の高校は名門でもなんでもなく、ごく普通の運動部であった、、、のみならず、OB達の大半は一年ももたずに辞めてしまっていて、秋にはチャラチャラした「普通の高校生」に転身していたのであった。「あんなの、意味ねえよ。球拾いと基礎練習ばっかりでよお。」と、もっともらしくその転身の理由を語っていた。「もっと色々あるぜ、高校行けば」... 納得! 「すごい」と思っていた先輩でも続かないという高校の運動部に、なんで僕が通用しようか。否否、辛い練習なんてまっぴらゴメンだったし「色々ある」の高校生活だ!

そんな僕がなぜ、アメフト部、、、数ある名門運動部の中においても「自主的でハードな練習に徹し」と高校のパンフレットにも自ら標榜するような自他ともに認める「ハードな運動部」に入るようになったのかは、、、、

また来週に!

「やんなきゃ、やられる」

Ask your inner voice,

社長コラム 一覧へ