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社長コラム:PRESIDENT’S COLUMN

vol.016テロ、徹底撲滅

米国の報復が本格化し始めた。
と、同時に報復攻撃への非難もまた高まってきている。実際、報復に対する賛否の声はどちらが大きいのはよく分からない。ただ、大抵の「文化」っぽい人々や「お茶の間」系番組は報復に対しては圧倒的に批判的だ。

僕個人の意見は「徹底報復」である。全ての怒りを結集して、テロを撲滅しなくてはならない、それも徹底的に。人間として、もっともっと怒るべきだと思っている。

「ニュースステーション」にて、燃え上がるWTCビルを見た時、新宿の雑居ビル火災事故の余韻も相まって、心が震え上がった。二機目が突入した瞬間、「力」と「正義」を前面に押し出した「アメリカ型統治」の終わりを感じた。これは終わりのない戦争だ、と。

ただ、この場合、冷静に自己分析してみると、僕の心を支配していたのは実際は「正義」ではなく「恐怖」であった。何をしでかすか分からない、そら恐ろしい「別人格」を持つ人間を敵に回す、という恐怖心である。それは報復には報復を、という泥沼へ状態の強大なる恐怖が、燃え崩れる摩天楼を目の当たりにしながら、自然に心から湧き出て来たからに他ならない。この状態は冷戦状態にも少し似ているだろう。我々は常にソ連の脅威に恐れおののいていた。

アメリカの正義はさておき;
問題はこの「テロ」である。テロリストにはテロリストの言い分があろう。この種の人間はどんな時代にも存在する。ただ、それら全ては力でねじ伏せることができる、と僕は思っている。オウムにしても、いまだにテロの機会を狙っているか、といえば、まるでそうではないだろう。よど号事件の犯人達もキムチはもう食べあきて、豊かで平和な日本に帰りたくて仕方ないだろう。重房某など、一生刑務所で自分のやってきた数々の残虐行為を懐かしんで、冷や飯喰いながら自己陶酔していればいい、出所させしなければ。所詮は「どっちが正しいか」である。みんなの怒りが終結し、具体的な措置をすれば、この手の「組織」は「組織」としての具体的な攻撃力を失う。今回の場合、テロリストが正しくないのは明らかだ。

この件について、僕の感じているポイントは大きく2点ある。
一つは;
報復やその手法に異論や正論的なイチャモンを唱える人は、どのような解決策を持っているのだろうか?ということである。「手法」や「順序」、正論的なイチャモンをとやかくいう人は、目の前の銃を構える「特殊人」に対しても同じような「順序論」を展開するのだろうか? 映画「ダイハード」でのイチ場面、殊勝にも凶悪犯人に交渉を仕掛けたNerdがいとも簡単に銃殺された。迫力ある名場面だが、現実はそんなものだろう。机上の正論など、特殊な人々にはまるで通用しない、、、否、通用しない、という前提でモノゴトを進めなくてはならないだろう。 また、はたして話し合いや外交で本当に解決するのだろうか? 戦争は外交の一手段である、というのは事実だ。ではその外交の定義ってなんだろう? 外国との交渉に他ならず、本来、交渉ごとには決まりも筋書きもありえない。混沌の現代社会では「出来レース」は存在しないのだ。法整備を具体的に、且つ慎重に進める必要があるのもよく分かる。ではどんな法律がこの状況にピッタリと当てはまるというのだろうか? 今、我々はまるで前例のない、未体験ゾーンに突入していることをまずは認識するべきで、正義感に満ち溢れた豊かな創造力とある種の独善性からなる果敢な決断が不可欠だ。この場合、引き金を引くのか引かないのか、という選択をまずは決断する必要があるだろう。結局のところ、どんな法律を決めたところで、一発の銃弾が歴史を大きく変えるのだ。真実は闇の中ではあるが「盧溝橋事件」などその良い例だ。結局、政治的な決断など現場の状況に合わせて玉虫色にならざるを得ないし、コントロールが出来なくなるのが実状だ。いずれにせよギリギリの線における究極の決断をし、「無」から「有」を作り出さねばならない。この場合の「無」は過去の事例や慣行で「有」は新しい価値や信じる正義に基づいた「創造的な決断」だ。

分かりやすい例 その1;
「話し合いや外交で解決を」、と主張している人の家の隣に、オウムの支部を作ろう! 彼らはどんな行動にでるだろうか? オウムと話し合って理解しあえるだろうか? オウムに対しては皆、苛烈なまでの拒否反応を示している。オウムは多少の問題はあれど一応、法にて裁かれていて、今のタリバンよりよっぽど安全な状態といえるであろう。でも、どこへ行ってもオウムは受け入れられない。何人もの犠牲者を出したオウム事件であるが、皆の怒りが「無力化」という具体的な効果を上げた一つの例といえるだろう。反対に、タリバンはいまだに虎視眈々と「白い粉」をシコシコと「無差別」にばら撒いているのだ。やっつける以外にどんな解決があるのだろうか? 

分かりやすい例 その2;
「有事」は「現場」を起点にして事が進む。法律の矛盾を上げへつらったところで、結局現場は独自の判断をして、モノゴトを進めざるを得ない。少し前、東京の三軒茶屋でラリッた「なた」を持った男が警官一人を殺して、自分もその警官に撃たれて死んだ。この事件を各自はどう捉えるだろうか? その警官は、当時、様々な葛藤の中で判断が遅れて犠牲になったのだと思う。誰だって死にたくないし、人は殺したくない。でも、結局殺されてしまった。それって、いいのだろうか? なんで、白昼堂々と「なた」をもってうろうろしているヤツに殺される必要があるのだろうか? 「なた」と「拳銃」、圧倒的に有利な武器を持っている善人が殺されたのだ。本来「危険人物」は、発見した瞬間「一撃」でいいのではないだろうか? 市民として、殺されたくなかったら「なた」を持って町を歩かないことだ。この場合、犠牲になった人が警官だから、ちょっと想像し難いかもしれない。たまたまそこにいるのが「あなた」だったら、どうするだろう。逃げれば誰かが殺されるのだ。この辺少し脱線するが、今の日本の教育は「危うきは逃げるべし」という線が強調されていると強く感じる。誰も進んで責任や社会的義務を全うしようとはしない。戦後教育の情けなさを日本人として悲しまざるを得ない。反対に「教育勅語」は人間としての尊厳や理想というものが率直に希求されていて、素直に共感できる。断っておくが僕は右翼ではない。自分の創造力に基づいた正しい感覚を語っているだけだ...で、話を戻す。 目の前の「なた」を持った男。こいつを一体どうするのか。それは結局、僕達一人一人が判断して行動をとらねばならないのだ。全力で自分の正義を尽くし、... ひょっとしたら殺してしまうかもしれないが... 後は司法の判断を仰ぐ、というのが本来とるべき姿だろう。これは戦場にいる自衛官であろうとも、警官であろうとも、一人の中年市民であろうとも、どんな法律があろうとも、どんな命令が下されていようとも、判断すべきは自分が判断しなくてはならない、といことだ。時には過剰防衛で人を殺してしまうかも知れない。もちろん、それは悪いことだろう。でも、本当に悪いことなのだろうか? 誰がそれをその場で判断できるのだろうか? 自分が殺されて墓に入ってから、「あああの時」と悔やんでも悔やみきれないだろう。結局、今盛んに論議されている内容には、まず「僕達
一人一人の判断」という絶対的なものが欠けている。危険人物を前に、一体どうすればいいっていうんだ! まず、そこをはっきりすべし。
ちょっと違う線の話:
APECにてテロ撲滅の宣言の採択がなされた。
今まで、中国は米国のやることなすことにケチをつけてきた。でも、今回のテロについては一転、米国サイドにガッチリとついている。驚くなかれ、日本の自衛隊派遣にもそれほどの嫌悪感を示していない。誰もが21世は中国の時代だと思っていただろう。「米中」ニ強の時代だと、中国自身も思っていたはずだ。 また、そもそも今回のAPECも中国のWTO加入に向けた国際化への大きな橋頭堡となるはずであった。ところが、テロのお陰で世界経済全体が停滞し、あらゆる国家レベルの活動や外交はテロ対策一色にそまった感は否めない。中国にしてみれば、華麗なるデビューを目前に出鼻くじかれた格好だろう。それはそれとしてとにかく、僕にとっては国際社会のあらゆる場面において、ことごとく反米姿勢を貫いてきた中国が米国に100%同調したこと、また自衛隊の派遣を事実上認めていることに驚きを感じざるを得ない。

もう一つは;
僕のような中小企業の経営者はマクロ的な視野とミクロ的な視野を両方イッペンに持たねばならない、という特殊なポジションにある。具体的には、一般のお客様からかかる電話応対もしっかり丁寧に対応するし、注文取ったり、クレームを聞いて電話を持ちながら頭を何度も下げて心から詫びたりもする。(極めて当り前の行為であるが...)また、時には大きなビジョンを描いて夢を語り、世界各国を飛び回り、それぞれのパートナー達と大きなビジネス戦略について討論したり、契約を締結したりなんかもする。 今まで上で書いてきた「テロ撲滅」内容はマクロ的な問題であり、僕が声を大にして言いたいのは、もっとミクロ的なこと、「なんでこんなになっちまったか」ということだ。

* 米国で結婚式を予定していた人たち、キャンセルせざるを得なかっただろう。
* 郵便物を取り扱う世界の人々の心どれだけ苦しめているだろうか?
* ホテルで一生懸命働いている人々は一体何人が解雇されるのだろうか?
* 航空会社で働く人々はどれほど苦しんでいるだろうか? 
* 今、安心して飛行機に乗れる人がいるだろうか?

来年のサッカー、ワールドカップとソルトレークオリンピック、一体大丈夫だろうか? 万が一、選手に危害が加えられたら... 一生懸命準備をしきた選手や関係者の気持ちはどんなものだろう。

今回のテロが与えた影響は計り知れない。事件当事者、事件後の影響をもろに被る当事者達の苦しみは想像し得ない。冒頭に少し触れた、アメリカ正義の問題、パレスチナの問題はいずれにせよ主義主張の問題だ。どちらが正しいかは誰も判断できない。とことん闘わなければ解決はしないだろう。どちらも正義を持っている。今はEUとなったヨーロッパ諸国も血みどろの戦争を経て、現代の平和と繁栄を勝ち取っている。ただ、今回のテロが与えた衝撃、具体的な損害は計り知れない。テロリストなりの正義に基づいてはいるだろうが、余りにも酷すぎて主義主張の問題にはなり得ない。単なる狂った殺人者だ。

米国に出張に行こうと日程を立て、最近お気に入りのデルタ航空に電話をかけた。デルタ航空はNY便、ロス便、アトランタ便の3本ある「はず」だった。でも、デルタはアトランタ便のみ以外、全て廃止とのこと。で、切り替えてワシントンDCに一気に飛べる全日空に電話した。全日空は成田からワシントンDCへの直行便がある航空会社である。でも、それも無くなってしまっていた。この事実を利用者として悲しむことは些か単純だ。そこには働いている人がいるはずだ。そして、その分の売上が減ればそこに携わっている人はクビになるのだ。その人たちになんの罪があるだろうか? 僕個人としては「あらゆる責任は自分に帰する」、という自己責任型の思考を持つ人間であるが、今回だけは全く当てはまらない。故意に秩序を乱している人間がいて、そいつの暴挙により真っ当な生活が侵害されている訳だ。あらゆる人々の様々なレベルの建設的な計画を根こそぎぶち壊しているのだ。

僕の義理の兄、現在はカリフォルニア大学バークレー校の大学院に通っている。で、兄、普通なら今月に簡単な結婚式をカリフォルニアにて挙げる予定だった。そして、家族にとってそれが今年一番の楽しい企画だったし、兄夫婦にとっては人生における数少ない大イベントの一つであっただろう。当然、その企画はキャンセルされた。

基より、貿易を業としているドーム、このテロ行為により、出荷業務が停止したり、滞ったり、米国内の産業が停滞したことによる生産遅れが発生したり等々、実際に被っている被害は少なくない。「一体、なんでこんなことになっちまったんだ!」

あー、本当にむかつく。別に偉そうなことを書きたくて書いたのではない。とにかくむかつくのだ。毎日、国内、海外出張で飛行機を使うドームスタッフのことが心配でならない。心が叫んでいるのだ、「なんでだ!」と。絶対に許せない。まず、その許せるのか、許せないのか、そこを各自ははっきりと考えよう。 世界がどんどん小さくなっている混沌の21世紀、決して他人事ではありえない。

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