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社長コラム:PRESIDENT’S COLUMN

vol.009宝物はグランドに... アメリカンフットボールの話 その4

結局... 高校生の最後の試合は全国優勝した日大鶴が丘高校に準々決勝で22対17というスコアにて惜敗、引退となった。試合もずっとリードしていたのだが、こっちのミスで失点したという後味の悪い敗戦であった。で、引退時の正直な感想は「ほっ」とした、ということだった。何か肩の荷が下りた、正に全ての義務から解放された気持ちだった。もう二度とアメフトはやらないですむ... 辛い練習、敢えて自ら苦の道を率先して進まないですむ... 怖い監督のプレッシャーから解放される...。

鬼のようにキツいメニューを自ら作成し、自ら先頭にたって「やる」。実際、17-8歳の子供にとっては「やる」より「やらされる」方が圧倒的に楽なのである。とにかく、苦しいことの連続であった高校フットボールは見事に、あっけなく幕を閉じた。

で、アメフトばっかりやっていた僕の学業は最悪で、付属大学である法政大学への進学は推薦基準ギリギリでの滑り込み状態であった。高校時代にアメフトはやり尽くした、それに前述の通り「もうこんなに辛い思いは懲り懲り」と思っていたので、大学では全く「やる」つもりはなかった。それほどまでに高校での「キャプテン」は苦しかった。

更に言えば、、、大学生の練習、、、というか全体の雰囲気や「シメ」はもっともっと激しいものであった。現実、すぐ隣で大学一年生が「シメ」られている様は、とても受け入れ難いものであった。というよりも、大学では高校時代、叶えることが出来なかった「明るいスクールライフ」、留学したりバイクでツーリングしたり、サークルでスキー合宿行ったり、合コンやったり、、、等々を夢見て平和な春休みを過ごした。

結局、、、入学式の翌日に大学のアメフト部に入部してしまった! きっかけは入学式の「サークル勧誘」である。とにかくサークル活動が余りにもチャラく感じられて、アメフト部に逃げ込んだ、という感すらある。それほどまでに僕の感性とは相容れない雰囲気であった。背景には高校アメフト部のキャプテンとして一年を過ごしたプライドがあった訳で、「本当に辛い修羅場を乗り切った」という事実は反作用的に何らかのエネルギーとなって、心根に燻っていたのであろう。今回は高校の時とは違い、瞬間的にあっけなく決意した。「やっぱり逃げられない、挑戦しよう」と。結局のところ、その決意以来、どんなに苦しくとも一度も辞めることは考えなかった。決意とはそれほどまでに大きいものである。

ただ、「決意」は一見カッコいいが、実際の法政大学体育会アメフト部は大変だった。「ごく普通の明るい家庭」に育った僕にとっては、予想を通り越した全くもって異次元の世界であった。モチロン、今の法政大学アメフト部とは全然違うのだが当時は... とにかく「シメ」が凄かった。毎日誰かが殴られていた。殴られて怪我して練習に出れなくなる人間、私服をビリビリに破かれて家に帰れなくなる人間、血反吐を吐いている腹を平気で蹴り上げる先輩、上級生の倍は確実に走らさる毎日...。甘くない、本当の意味でのサバイバルであった。上級生もやはり気合が入っている。僕のような元キャプテンや生意気そうな一年から確実に押さえ込んでいく。押さえ込み方法はとにかく、「やっつける」こと。練習ではちょっとでも声を出してないと、やられる。何をされるかと言えば、単純な暴力、投げ飛ばされたり蹴られたり...。

まあ、この辺はあんまりいい思い出ではないので、割愛するがとにかく「サバイバル」という表現がぴったりであった。はっきり言える事は「精神的なキツサ」より「肉体的なキツサ」の方が数倍も厳しいってこと。よく一年、もったものだ。毎日毎日、誰かが脱落する。怪我や休部、退部である。落伍者が出るたびに母数がへる為、当然「被害」は集中する。脱落するのは簡単だが、どうしても休めない。何だか分からぬ変な意地、サバイバルとは正に自分の意地との戦いであった。

で、肝心のフットボールの実力だが、とにかく駄目だった。全く通用しなかった。同期が何人も一年生からスタメンに名を連ねる中、僕は二本目にも入れなかった。同じポジションでレギュラーの先輩は体重100kg以上、僕は75kgだった。自力、テクニック、スピード、全てにおいてかなわない。正にグランドの「ゴミ」のような状態、悔しくても悔しくても、全く歯が立たないのである。「ワンオンワン」という一対一で闘う「相撲」のような練習メニューがある。その練習では3本目の先輩にも勝てないという何とも屈辱的な日々を送った元主将であった。とにかく、法政ニ高は名門で、一つ上の先輩で主将だった人は一年からレギュラーで、既に中心的な存在であった。(また、もっと不味い事に一つ下の後輩で主将だったヤツも一年でレギュラーポジションを獲得していった。)

これは高校時代、自力をつけるよりもテクニックをつけることに腐心した結果が招いた大惨事である。もう一つ、高校時代は... 恥ずかしくて書きようもないが、「モテる高校生」をかなり意識した「気持ち悪い男」だった。練習は辛くとも、カッコいい高校生でいたかった。ファッション誌を購入して、最先端を走ることばかりを考えていた。体重75kgというも、身長178cmの僕にとって「ファッショナブルな男」最高限度の体重であった。実際モテたかどうかは、、、別問題としてとにかくそんな中途半端な選手で、高校レベルであれば多少のテクニックを駆使すればそれなりの実力を示すことは可能であった。あと、毎日の日課としてベンチプレスをやっていたので、上半身の力には自信があったこともテクニック路線に走らせた一因である。(高校生でのマックスは 100kg!)

ただ、大学レベルはまったくそうではない。大学4年生は22歳、完全な大人である。そんな大人が100kg以上の体重で、75kgの僕よりも素早く走り、激しい「当り」を見せる。中途半端なテクニシャンはいとも簡単に「すっ飛ばされて」しまうのである。上半身の力もヘッタクレもない、物理的なエネルギーの違いである。

とにかく、大学一年の時はボロボロであった。たった18年の人生であったが、初めて味あわうボロボロ、「ボロ雑巾」のような人生であった。18歳もなれば自我や自尊心が芽生える。そんな中、シゴキで身体はボロボロ、練習では全くグランド上のゴミのような存在でボロボロ、自分が生きている意味を全く見出せない一年であった。「俺は何のために存在しているのだろう?」心から悩む毎日、グランドでは厳しいシゴキで「ボロボロのゴミ」のように、先輩達の足蹴にされる毎日であった。

そんな時、今はなき尾崎豊の「存在」という歌をよく聴いて本当に勇気付けられた。歌って人を確実に救う。多感でまた僕にとっては大変困難だった時代、尾崎豊という歌手と出会えたこと、心から感謝せざるを得ない...合掌。

閑話休題;

もう止めた、もう、コリゴリだ。情けない自分とはおさらばだ。カッコなんてどうでもいい。とにかく「やる」。やっつけてやる。俺はこんなもんじゃない。 二年生になるオフ、心に誓った。何故そう誓ったのかは分からない。尾崎豊のお陰かもしれない。僕に「努力」を定義してくれた王貞治(引退時に書いた自伝、「回想」の中で「努力が実らない、と嘆く人は努力とよべるだけのものをしていないのではないか? 努力は必ず実るものである」との記述に大いに感動)のお陰かもしれない。苦難に苦難を重ね、本当の自己研鑽を説いてくれた「宮本武蔵」のお陰かもしれない。理不尽な先輩への反発だったのかもしれない。でも、とにかく「やっつける」と心に誓った。

まずは「増量」だ。目標は75Kgの体重から10kg増加だ。178cmで85kgだったら、ブタである。でもそんなことは関係ない。強くなりたい。とにかく強くなりたい。 オフシーズンの1ヶ月、さすがに10kgの増量は不可能であった。でも82kgまでもっていくことができた。この頃から「カッコいい高校生」を目指していた2年前とはまるで違う形相になっていった。また、当時最強だった「日大」の「最強ライン」柏木、金子(現レナウンローバーズ)のビデオを擦り切れるほど見て研究した。ショットガンを使わずにTフォーメーションで関西のライン達をドライブしまくる様は正に圧巻であった。彼が使っていたスパイクやショルダーパッドまで同じモノを購入するほど、全てを手本にした。ビデオを見てイメージをつけることは本当に大きな意味をもつ。完全には行かないが、それに近い動きができる。とにかく「お手本」が頭の中に「明確」あるので、自分の実際の動きと対比が容易にできる。彼らは絶対に一発目で負けなかった。一点に力が集中していて、その直後の手の使い方がそれに輪をかけて上手かった。低く力を一点に集中させ、相手をカチ上げ、下から手をあてがって、足をカキ続ける... 極めて単純な動作であるが、一連の動きとして綺麗にできるようになるには「最初の一歩」が上手く行かないと絶対に駄目だった。とにかく、スタートの練習と相手の一点に集中する集中力の強化が日課であった。他のことなど全く気にせず、スタート、集中力、これに集中した。(ただ、二年になっても相変わらずのシゴキには閉口したが...。)

上記のようなテクニックは先輩方からよく教わったことだ。でも一連の動作としての解説、つまり「こうするからこうなる、だから、ここを強化せよ」というような納得性のある指導はされなかった。指導は常に断片的で、「足カケ!」とか「イッパツに集中だよ」とか、その瞬間の目立つ悪点のみを指摘された。この時、自分の実力が目に見えてメキメキ上達したばかりでなく、上達する方法を知った。つまり、理想系、先ずは「明確な答え」を出してその答えを導き出す要素を順を追って追求する。そして入り口から一つ一つ集中して解決していく。これはアメフトだけでなく、全てのことに共通する問題解決策である。状況を概ねざっと判断して、先ずはベストプランを考える。そしてどこが入り口かを考え、一つ一つ解決していく。

以後、コーチとなって色々な選手と触れ合ったが、指導方法は一貫してこの問題解決スタイルである。断片的な指導は一度もしたことがない。些か自画自賛っぽくって恥ずかしいが、よく指導した選手達から「今までも同じことを注意され続けてきたけど、何故か初めて解決することができました」というコメントを何度となく聞いてきた。ポジションが違ってもこのアプローチは普遍的に通用する。一見、あまりに基礎的で幼稚な指導でも理想系を出口に、全体像から入って一連の動作や戦術として、入り口から選手とともに解決していくことにより、確実に選手達は上手くなっていく。反対に、このようなアプローチが出来ないコーチが余りにも多いことも気になることではあった...が。

と、言う訳でメキメキ上手くなっていった僕は同時に戦略面においても中心的な存在となっていた。テクニックに走っていた高校時代、得意技は「楽して勝つ」、というインチキ戦法だ。本来、「要領の良さ」は基礎が出来て初めて効果を発揮する。自力がついてくると、この辺の応用が利いて来るわけだ。また、そんな思考回路を「前提」に持つ僕は、自分の実力向上とともに、チームの実力向上においてもロジカルなアプローチができた唯一の存在だった。当時のキャプテンに「打倒日大プラン」を引っさげて、直談判に行った。大学ノート一冊にまとめた打倒日大戦略は、今読んでも画期的なアプローチで、ゲーム全体のタイムコントロール、プレー数、各選手の左右、前後のアライメント(位置)の再構築、第1Qから打っておくべき布石、つまり入り口と第4Qでの出口プランまで、圧倒的に自力差のある相手と戦うには最高のプランである、と確信する。

「何がベストなのか?」

という疑問形のアプローチはあらゆる詳細事項の理由付けの解明から入った。今の政府の構造改革と似た手法であるが、とにかく、当時行われていたプレーは「去年からこう」だとか「伝統的にこう」だとか「本に書いてあったから、こう」等々と、まるで「理由のない理由」から成り立っていたことばかりであったことが分かった。そうなれば独壇場である。とにかく、ベストは何か、全くの白紙から入って、基本の基本から考え直して、出口では「勝利」という「明確な回答」を描いて一冊を書き終えた。無論、当時無敵を誇る日大、更に昨年度はファーストダウン一回しか取れずに敗れた日大相手に「勝利」を描くのは苦しい。ただし、「やる」前から「負け」を描くのは「やる」意味がない。挑戦者は常に「不可能」を「可能」にする、という「逞しいまでの妄想」から入るものだ。

実際、その一冊は誰の目から見ても説得力十分の内容であり、また日大に対して明確に「勝利」を口にした最初のプランであったことから、先輩やコーチ陣の心に何らかの火をつけた。人間、大きな素晴らしい目標を立てて、ソコまでの具体的なプランを示すことの持つ意味の大きさを強く感じた瞬間だった。「ボロ雑巾」だった僕のアイデアを見て目を輝かしている先輩がいる。そして「お前が全部やれ」という結論がでて、また違う意味で大きな一歩を踏み出すことが出来た。実質、二年生でオフェンスコーディネーターを経験できたのである。また、実力もメキメキ上昇し、二本目の位置まで漕ぎ着く事が出来て、自分のプランの実現性を自らグランド上で確認することができたのも大きかった。単なるコーチ業だけではない、自分で確認して調整することができるのだ。「無理」や「できない」には色々な意味がふくまれる。「ちょっと頑張ればどうにかできる」、「このステップを小さくすればできる」、「相手の位置がここまで開いていたらできる」等々、この辺の詳細を僕含め、皆でやりながら確認することができた。また、QBという要のポジションに、今はドームの専務としてともに働いている今手がいたことも更に大きかった。とにかく、今手とはずっと一緒にいて、理想系の構築、理想系への道筋、実行までのプロセス等々、机上と実行という全ての道筋をともに進むことが出来たのである。

と、それやこれやであったが、二年生の時は結果的には関東ブロック5位で、打倒日大も叶える事はできなかった... が、前年に大敗した東海大学や早稲田に肉薄することが出来た大きな前進の年となった。

ガムシャラに頑張ってもしょうがない。理屈だけでもどうしようもない。汗流して、反省して、再度挑戦する。大きなプラン、大きな目標、具体的な夢を掲げ、ロジカルにその達成の道筋を定義する。その道程は実際、苦しい。特に「はい上がり」フェーズではプラン通りに行くことなど殆どあり得ない。ただ、そんな大きな目標の設定は、底知れぬエネルギーとなって前進の速度を確実に速める。また、ロジカルな道筋の定義は、前進の道標となって、向かうべき方角への距離を縮める。

苦しかった大学一、二年、存在価値のまったくない「ボロ雑巾」としてモガき苦しみながらも、微かではあるが何か価値のある崇高な光を見つけた気がした思春期であった。 (原因がそこにあるかどうかいざ知らず、80kgを超えるこの頃、まるで女性とは縁がなくなり、一抹の寂しさ感じながら生きる思春期でもあった...)

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